『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説11
モーセが選ばれた理由と杖とその奇跡の意義
エジプトからカナンに復帰するまでの路程は、イエスが来て歩まれる基本路程を表示する形で現れなければ、目的を完成したと見ることができない一つの基となる期間であり、エジプトの時代からソロモン王までは、第二次としてみ旨を完成すべき存在が現れて成就することを予告し表示するものである。つまりイエスが来られ、エジプトからカナン復帰へと向かうかたちで、我々人間の理想復帰の地を求めていくことを表示し展開させたのである。これがこの路程の意義であることを知らなければならない。このように、エジプトからカナンへの復帰路程はイエスの路程を表示したものであるというのが神の根本のみ旨なのである。
そうして、堕落させてしまった人間に対して、神がご自身の責任分担として始めたことが正にモーセを立てられることであった。そして、モーセは神を代身し、パロはサタンを代身して現れるようになった。
モーセが選ばれた原因は、怨讐がイスラエルの民を極度に迫害すると同時に、強制してでも全滅させようとする行動に出てくるようになり、その苦役のなかで怨讐の人、すなわちエジプト人がイスラエル人と争うのを見て、そのエジプト人を打ち殺したことにある。(出エジプト記二章一一~一二節)もとよりモーセはエジプトの宮中で成長したのだが、エジプト人を怨讐視し、自分はイスラエルの子孫であるという変わらない志操は、やはり神が選ばれるに相応しい貴いものであった。
モーセは、たとえエジプトの宮中で育ったとしても、エジプト人ではなく天の民と変わらない存在そのものであり、怨讐のエジプトが最も憎む存在であると同時に、神の愛を受けて成長した存在だったのである。このような存在がエジプトの宮中から出てきたのであるから、二度とエジプトとは結託しない存在だということは事実である。その上に、エジプト人に対して憎悪の念をもつ確固たる存在ゆえに、神が選ばれる原因があったということである。そのようにして神は、モーセを送ってエジプトの王パロに対して工作する命令ができるようになったのである。
神の命令を受けたモーセが、エジプトの民が自分を信じることができる証を求めると、神は杖が蛇になる最初の奇跡を見せてくださった。(出エジプト記四章一~五節)そうしてこそ、先祖に現れた神であることを知らせ、そのみ旨に従順でなければならないことが分かるからである。
その次には、神が「あなたの手をふところに入れなさい」(出エジプト記四章六節)と言われたため、モーセが手を懐に入れるとその手がらい病にかかっていた。その次に再び手を懐に入れるとそのらい病がきれいに治っていた。その次に神は、「あなたの声に聞き従わないならば、あなたはナイル川の水をとって、かわいた地に注ぎなさい。あなたがナイル川から取った水は、かわいた地で血となるであろう」(出エジプト記四章九節)と語られた。そのあとモーセは神に言葉を求めたのである。(出エジプト記四章一〇~一二節)
神がモーセを送ろうとしたとき、なぜこのような奇跡を見せてくれたのかというと、神が将来なさろうとすることの基となる行事だったからである。それゆえ、そこで表示されたことは、イエスが来られて目的成就のために行うあらゆることを、象徴として表示しならなければならない原理的な目的があったのである。
また、杖というものは、身代わりとなって支える者を表示するものであった。すなわち、自分の身代わりとなって保護するものを意味し、目的地までの道のりをすべて定めてくれるという意味がある。また適切でないものを打ち、み旨どおりに成就させるという意味があった。これはすなわち、イエスが我々の全生命に対して保護者となられることを意味していたのである。
そして、蛇を見せてくださったのは、エバを誘引した存在が蛇で表示されたことから、招来イエスが天の蛇として来ることの表示であり、サタンの手中からエバを取り戻す役事に着手することを意味していたのである。つまり「サタンよ、お前が蛇のようにエバを誘引したのだから、私(神)も天の蛇であるイエスによって役事する」という意味があったということである。また、モーセの蛇がパロの蛇を飲み込んだのは、イエスがサタンを飲み込んで勝利することの予告的表示であった。
次に、モーセが最初に手を懐に入れたときその手がらい病にかかったことは、サタンに誘引され、サタンの懐にかかえこまれたエバの行動が人間を殺す役事となったことを意味していた。その手を再び懐に入れたことは、イエスが来られてエバを抱きかかえることの表示であり、手の病が治ったことをもってエバがらい病のような死中から蘇生することを見せてくれたのである。つまり第一次の抱擁は死亡だが、イエスの第二次の抱擁は命であり永生が始まることを証するものであった。
次に、川の水が血になるというのは、水は堕落によって命を失った罪悪世界を表示するものであり(黙示録一七章一五節)、イエスが来られ、死亡の中にいる存在に対して血による命を注入し始めることを表示したものであった。
そして、その次にモーセが求めた言葉は、相対目的を成就できる重要な責任仲介体である。そのため、言葉を求めたのは、み言によって造られた創造物がすべて失われてしまったため、イエスが来てみ言の相対となる理想的な実体を再び成就するという意味を表示したのであった。すなわちその言葉とは創造目的完成の実体を意味し、アダムとエバを取り戻し全人類と万物を取り戻すという意味がある。
このようにして神は、そのときにモーセが求めたものをすべて許諾され、エジプトに帰るように言われたのである。(出エジプト記四章一九節)(『原理原本』p142~146より引用)