聖書と禅シリーズ③「無心とは何か?」― 心を空にするのではなく、すべてを受け入れる

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「無心(むしん)」――

これは禅の世界でよく語られる言葉です。しかし、「何も考えないこと」や「感情を無くすこと」だと誤解されがちです。

実は、「無心」というのは、単なる“空白”ではありません。むしろ、それはあらゆるものを受け入れる、広くて柔らかい心のことです。

「無心」とは、心を無くすことではない

禅では、次のように語られることがあります。

「無心の人には、何を与えても邪魔にならない」
「無心の人は、苦しみすら飲み込む」

つまり、「無心」とは感情が消える状態ではなく、どんな出来事も、どんな人も、そのまま受け止める“ひらかれた心”のことです。

嬉しさや悲しさ、怒りや迷い――それらを否定したり、排除したりするのではなく、「そういう思いが、今ここにあるのだな」と静かに見つめること。

「無心」というのは、何かを“なくす”ことではなく、“こだわらない”ことです。

イエスも教えた「子どものような心」

この「無心」の姿勢は、イエスが語られた「子どものような心」と通じるものがあります。

「幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」― マタイ18:3

子どもは、自分をよく見せようとせず、そのとき感じたことを、そのまま表現します。

未来を思い悩むこともなく、過去にとらわれることもない。
ただ「今ここ」を全身で受け取って生きているのです。

それはまさに、禅が説く「無心」の在り方に似ています。

自分の思いに“気づく”という修行

私たちは、日々さまざまな思いに揺れ動きます。
不安、怒り、嫉妬、後悔――

でも、それに気づかないまま行動すると、それが人を傷つけたり、自分を苦しめたりしてしまいます。

禅でも、キリスト教でも大切にされているのは、「気づく」こと――意識を向けることです。

祈りの中で、自分の思いを神にさらけ出すとき、私たちは少しずつ「自分の心に何があるのか」に気づいていきます。

それを無理に変えようとしなくてもいい。ただ、「ある」と認めて、神の前に静かに置く。それが、「無心」へと近づく第一歩になるのです。

結び:「無心」は“神の愛にすべてをゆだねる心”

「無心」とは、自分を責めることでも、感情を消すことでもありません。

それは、「このままの私で、神に愛されている」という信頼から生まれる、ゆだねきった心です。

禅はこう問いかけてきます。

― あなたの心をいっぱいにしているのは、いったい何か?
― あなたの思いは、神に向いているか? それとも、自分自身に向いているか?

何かを削るのではなく、すべてを受け入れ、神にゆだねる。そのとき、私たちの心はようやく、本当の意味で“空っぽ”になり、神の霊で満たされていくのではないでしょうか。

 

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