人間の言語能力を出発点とする「言語存在論的証明」は、神の存在を考える新しいアプローチです。
この視点をさらに深めるには、哲学史や言語学の巨匠たちの議論と照らし合わせてみることが有効です。
ここでは、アウグスティヌス、ウィトゲンシュタイン、チョムスキーの三者に焦点を当て、彼らの思想と「言語存在論的証明」の関係を整理してみます。
1. アウグスティヌス―言葉の神的起源
アウグスティヌス(354–430)は『告白』の中で、幼児がどのように言語を学ぶのかについて、自らの経験をもとに考察しています。
彼は、赤子が泣き声や身振りで欲求を表し、やがて母や養育者の言葉を聞いて理解し、模倣することで言語を獲得する、と記しました。
ここで示されているのは、言語が必ず「他者から受け継がれる」ものであるという洞察です。
人間は孤立した存在ではなく、言葉を媒介にして共同体に迎え入れられる存在である、と彼は見抜いていました。
さらにアウグスティヌスは、言語の根源を「神の言」に結びつけました。
創世記の2章16~17節で、神はアダムに直接語りかけ、「取って食べてはならない」という戒めのみ言を与えました。
人間の最初の言葉の経験が神との対話であったことを示すこの聖句は、まさにアウグスティヌスの神学的直観と一致します。
彼にとって言語は、単なる道具ではなく、神からの賜物であり、人間が神に似せて造られたことの証なのです。
2. ウィトゲンシュタイン―言語ゲームと共同性
20世紀の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、言語と人間の世界理解の関係を徹底的に探究しました。
『論理哲学論考』では、「言語の限界が世界の限界である」と述べ、人間の思考や認識が言語に規定されていることを明らかにしました。
さらに『哲学探究』では、「私的言語は不可能である」と断言します。つまり、言語は必ず他者と共有されるものであり、孤立した個人の中で完結することはできないと述べ、「言葉は最初から対話的である」という事実を強調しました。
この視点は、「最初の人類は誰から言葉を学んだのか」という問いと深く関わります。
もし言語が本質的に共同的な営みであるならば、最初の人間が言語を持ち得たこと自体が、すでに「彼らと対話する他者の存在」を要請します。
その「最初の他者」が神である、という「言語存在論的証明」の論理を、ウィトゲンシュタインの言語論は間接的に支えているのです。
3. チョムスキー―普遍文法と進化論の問題点
現代言語学の巨匠ノーム・チョムスキーは、人間の言語習得を説明するために「生成文法」理論を打ち立てました。
彼によれば、人間の脳にはあらかじめ「普遍文法」と呼ばれる構造が埋め込まれており、子どもは限られた言語入力からでも母語を習得できるというのです。
この理論は「言語能力は生得的(うまれつき)である」ことを強調しています。しかし同時に、ここに進化論的説明の難しさが浮き彫りになります。
チョムスキー自身も、言語能力の起源について、「ある種の突然変異によって脳に言語機能が一挙に出現した」と述べることがありました。
ところが、進化論の一般的な理解では、複雑な能力は徐々に蓄積していくはずです。文法を伴う言語のような高度な機能が突然現れることは、ダーウィン的漸進主義では説明困難です。
実際、進化生物学者や認知科学者の間でも、「言語の進化はダーウィン理論の中で最も説明の難しい問題」とされています。
人類以外の霊長類は、音声や記号をある程度扱えるにもかかわらず、文法的言語を創造できないからです。
この「進化論のギャップ」をどう理解するか。自然主義者は「まだ研究が足りない」と考えますが、「言語存在論的証明」の立場からすれば、それはむしろ「神が人間に特別に与えた能力」であると解釈するのが合理的です。
言語が人間にのみ突然出現した事実は、自然進化を超えた次元を想定させるのです。
4. 三者を貫く共通の線
アウグスティヌスは、言語が神からの賜物であることを直観しました。
ウィトゲンシュタインは、言語が共同性を本質とし、孤立した個体には成立しないことを論理的に示しました。
チョムスキーは、言語能力が生得的であり、自然進化の説明を超える「突然の出現」であることを明らかにしました。
この三者の議論を通じて浮かび上がるのは、人間の言語の根源には人間を超えた源泉があるということです。
それは偶然の進化ではなく、聖書が証言する「神の言(ロゴス)」から理解するのが自然だと言えるでしょう。
5. 結論
言語は、人間を人間たらしめる根本的能力です。それは生物学的進化の単なる副産物ではなく、哲学・神学・言語学の三方向から見ても、人間が神のかたちにかたどられて造られたことの証と考えることができます。
アウグスティヌス、ウィトゲンシュタイン、チョムスキー。時代も背景も異なる三人の人物が、それぞれの方法で「言語の背後にある何か」を指し示しています。
その「何か」を神と呼ぶとき、言語そのものが神の存在を証しているのだと言えるでしょう。