失楽園の物語は、生命の中心を失った人間の姿を描きました。知識に偏り、丹田を隠し、命の木から遠ざけられた人類。
しかし、聖書はそこで終わりません。新約聖書において、イエスは人類に命の木を取り戻す道を示されました。
1. 腹から流れる生ける水
イエスはこのように語られました。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ福音書7章38節・口語訳、以下同)
「腹から」という言葉は決して偶然ではありません。創世記3章7節で、人間が堕落したときのことが記録されていますが、「ふたりの目が開け」とは、人間が知識偏重に陥ったことを象徴し、いちじくの葉を「腰に巻いた」というのは、生命の中心に位置する丹田がふさがってしまったことを象徴しています。
しかし、イエスはその反対の道を示されました。覆われた丹田を再び開き、腹から生ける水が流れ出る道を復帰されたのです。
2. 主体と対象の復帰
本来、命の木=丹田が主体であり、善悪を知る木=脳は対象であるべきでした。ところが堕落によって「目が開け」、脳が中心となり、秩序は逆転しました。
イエスは丹田を主体に据え直し、脳を正しく対象として働かせる道を開かれました。
これは単に宗教的救いではなく、人間存在そのものの復帰を意味しています。生命の根源に立ち返ることこそが、イエスの示された復帰の道です。
3. 個人から始まる
この復帰は、歴史や国の制度の前に、まず個人の内面から始まります。
腹に意識を置き、深く呼吸し、生命の源泉とつながるとき、人は内側から新しい命を体験します。
イエスは「新しく生まれなければならない」(ヨハネ福音書3章7節)と言われましたが、それは命の木を中心に据え直すことに他なりません。
そして、聖書において水は命の象徴です。ノアの洪水、荒野の岩から湧いた水、イエスのバプテスマ。いずれも命を生み出す水の出来事でした。
イエスが語った「腹から生ける水」とは、命の木=丹田を源泉とする新しい生命の流れを指しています。
4. 復帰されたエデンのビジョン
ヨハネの黙示録には、復帰されたエデンの姿が描かれています。
「都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(ヨハネの黙示録22章2節)
命の木は再び登場し、人々を癒やす存在となります。かつて「腰に巻いて」隠された命の木が、今度は開かれ、全ての人をいやす木となるのです。
結び
イエスが示された復帰の道は、堕落で閉ざされた丹田を再び開き、腹から命の水を湧き出させることでした。
脳の「目」が開いて知識偏重になった人間に、再び命の木を主体として据え直す道を与えられました。
この復帰は、私たちの内から始めることができます。腹に命を感じ、命の木を育てるとき、失われたエデンが再び復帰される道が開かれます。