私たちは日々、多くの情報を受け取り、判断し、行動しています。しかし、その判断は必ずしも客観的ではありません。
心理学では、人間の思考が「自分を中心」に歪む傾向を「自己中心バイアス(egocentric bias)」と呼びます。
たとえば、自分の意見が平均よりも正しいと思ったり、他人より努力していると信じたりするとき、私たちは無意識のうちに「自分基準の世界」に住んでいるのです。
このバイアスは、単なる心理的現象ではなく、人間の根源的な性質を映し出しています。
つまり、「自己中心的に世界を見てしまう」という傾向は、人類始祖アダムとエバの堕落以降、人間存在の中心的な歪みでもあるのです。
人間の「主観の牢獄」
心理学者たちは、人間の脳が自分の経験・記憶・価値観を通じて世界を解釈するよう設計されていると説明します。
私たちは完全な客観者ではなく、自らのレンズを通してしか現実を見られません。
しかし、この「主観の牢獄」が強くなりすぎると、他者の視点を理解できなくなります。
自分の考えが常に中心にあり、他人の痛みや立場が見えなくなる。これが「自己中心バイアス」です。
聖書はこの構造をはるか以前から鋭く指摘しています。
創世記の3章で、アダムとエバが禁断の実を取って食べたとき、彼らは「神のようになれる」と思いました。これはまさに「自分を中心とする意識」の始まりでした。
神を中心としていた人間が、自分を中心とする存在へと転じた瞬間――自己中心バイアスの原点です。
「自分が正しい」という錯覚
心理学的にも、自己中心バイアスは「自分の判断が平均より正しい」「自分の行動には正当な理由がある」と感じる傾向として現れます。これを「自己奉仕バイアス(self-serving bias)」とも呼びます。
一方で、他人の失敗には厳しく、自分の失敗には寛大になるのも同じ根です。つまり私たちは、自分を基準に他者を測る傾向を常に持っています。
聖書はこの状態に対して、次のように警告しています。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。(マタイ福音書7章3節)
人は他人の欠点を見つけるのに長けていますが、自分の欠点には鈍感です。
心理学では「自己認識の非対称性」と呼ばれる現象ですが、イエスはそれを2000年前にすでに見抜いていました。
自己中心バイアスとは、まさに「自分の目の梁」に気づけない心の構造なのです。
「我」を中心とする罪
聖書の観点から見れば、自己中心性は単なる認知の癖ではなく、霊的な「罪の構造」と言えます。パウロは次のように言いました。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。(ロマ書7章15節)
ここには、人間が自分中心であるがゆえに、神の意志と乖離してしまう悲劇が表れています。
つまり、自己中心バイアスとは、霊的に言えば「神中心」から「自我中心」への転落に他なりません。
人間は自分を愛するがあまり、他者や神を見失う――その心理的・霊的構造が、現代心理学の用語で言う「自己中心バイアス」なのです。
神の視点を取り戻す
では、どうすれば、私たちはこの「自分中心の眼鏡」から自由になれるのでしょうか。
第一のステップは、「自分が偏っている」という事実を認めることです。
自分の判断が常に正しいと思い込むことをやめ、他者の視点や神の視点に耳を傾けることです。箴言には次のような聖句があります。
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。(箴言3章5節)
つまり、神を中心に据えることこそが、自己中心バイアスを克服する唯一の道です。
私たちは、主の前に立つとき、初めて「自分の小ささ」「思い上がり」「偏見」に気づくことができます。
祈りと黙想は、心理的にも霊的にも「自己中心バイアス」を和らげる最も深い行為です。
結び―自己中心から神中心へ
心理学が発見した「自己中心バイアス」は、人間の心の基本構造の一つです。しかし聖書は、その構造を超えて「神中心の世界観」へと人を導きます。
人は自分を中心に世界を解釈する存在ですが、神は「他者を愛する心」を通して、私たちをその牢獄から解き放とうとされています。
自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ(マタイ福音書22章39節)
これは単なる倫理ではなく、認知の転換です。自分を基準に世界を見るのではなく、神の愛を基準に人を見る。その時、人は初めて真の意味で客観的に、そして霊的に自由になります。
このシリーズでは、次回以降、「自己中心バイアス」がどのように他のバイアスを生み出し、社会的構造や信仰生活にまで影響しているのかを、さらに深く掘り下げていきます。

