はじめに
日本における聖書翻訳には、世界でも珍しい特徴があります。それはカトリックとプロテスタントが共同で翻訳した聖書が存在するという点です。
1987年刊行の新共同訳聖書、そして2018年の聖書協会共同訳がその代表です。
しかし、教派が違うということは、教義も解釈も異なるということです。
そのため、翻訳作業の過程では、「どの訳語を採用するのか」「原文をどう理解するのか」を巡り、さまざまな論争が生まれました。
本記事では、その中心的な論争テーマを取り上げ、特にヨハネ福音書1章1節の訳を例に、共同翻訳の裏にある神学的な緊張と対話の歴史を見ていきます。
1.最大の論争点:ヨハネ福音書1章1節の訳
共同翻訳最大の論争は、聖書の冒頭とも言えるこの一節でした。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(口語訳・新共同訳共通)
一見、どこに問題があるのか分からないかもしれません。しかし、原文のギリシャ語には重要な点があります。
原文では「神(theos)」に冠詞がついていないのです。
kai theos ēn ho logos
(そして神であった、その言は)
冠詞がない場合、「神そのもの」というより「神的な存在」と訳せる余地が生まれます。ここで教派の立場の違いが表面化しました。
カトリック
→原文のニュアンスを正確に、哲学的含みを残したい
プロテスタント(特に福音派)
→キリストの神性(神であること)を明確にしたい
つまり、「言(ロゴス)は神なのか、それとも神的存在なのか」、ここで意見が対立したのです。
最終的に、日本語訳としては「言は神であった」が採用されました。
これはプロテスタントの主張に近い形です。しかし、ただの勝利ではありません。
カトリックの側は、「神と等しい、と断定しすぎないための注解」を求め、翻訳ノートにおいてニュアンスを説明することで折り合いをつけました。
訳文を変えるのではなく、注解で神学的バランスを取ったのです。
この一節がどれほど重要かというと、キリスト教における「イエスは完全な神であり、完全な人である」という理解の根拠となる部分だからです。
共同翻訳は、単なる日本語の問題ではなく、キリスト論(Christology)の根幹に触れる神学問題を扱っていたと言えます。
2.「おとめ」か「処女」か――イザヤ書7章14節
次の論争は、イザヤ書の預言です。
「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」(口語訳)
「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」(新共同訳)
ヘブライ語の原文には「עלמה(アルマー)」という単語が使われています。
意味としては「若い女性」「娘」であり、必ずしも「処女」を意味する言葉ではありません。ここで教派の意見が分かれます。
カトリック
→原文の語義を尊重しつつ、教義は否定しない形にするべき
プロテスタント(特に福音派)
→新約(マタイ1章)との整合性から、処女懐胎を強調するべき
結果、共同訳では「おとめ」が採用されました。
「処女」と断定せず、かつ「若い女性」と曖昧にもしない。これは、原文の幅を残しつつ、神学的要請も満たす表現と言えます。
3.「兄弟」という言葉をどう訳すか
福音書では、イエスの「兄弟」が登場します。しかし、カトリックには「マリアの終生童貞(永遠に処女であった)」という教義があります。
したがって、聖書に「兄弟」と書かれている場合に、実の兄弟と訳すべきかどうかが議論になりました。
カトリック
→兄弟=いとこ・親族・弟子などの広い概念
プロテスタント
→兄弟=文字通りの兄弟と読める
共同訳では、「兄弟たち」と訳しつつ、注解に「親族・仲間を含む」と記載されることで合意しました。
4.「義」「救い」「恵み」などの訳語選択
この問題は、単語そのものに神学が含まれているため、議論が避けられませんでした。
例:ローマ人への手紙3章24節
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(口語訳)
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(新共同訳)
カトリック
→義を内的変化・成聖と理解
プロテスタント(特に福音派)
→義を法的宣言(無罪宣告)として理解
両方を包含するため、「義とされ」という表現が採用されました。
これは、双方の神学を損なわない、中立的な表現の探求と言えます。
5.神の名「YHWH(ヤハウェ)」をどう扱うか
旧約聖書には「YHWH」という固有名が現れます。しかし、ユダヤ教では、この名を口にしてはならないとされます。
カトリック
→「ヤハウェ」の発音を避けたい
プロテスタント
→固有名なので原語に近い表記をしたい
共同訳は「主」で統一しました。
結論―共同翻訳は神学の妥協ではなく「対話の成果」
共同翻訳は、「日本語として読みやすい聖書を作るための作業」ではなかったのです。
それは、教派と神学が衝突しながらも、一致点を探し続けるプロセスでした。
翻訳作業では、一つの言葉を巡って何週間も議論し、「どの日本語訳なら双方の信仰告白を損なわないか」を追求し続けたと記録に残っています。
共同翻訳は、カトリックとプロテスタントが、信仰を守りながら共通の聖書を作り上げた、神の導きによる恩恵の賜物と言えるでしょう。
最後に
共同翻訳には、議論と緊張、そして忍耐がありました。しかし、その対話があったからこそ、いまの日本では、信徒も教会も同じ日本語の聖書を読むことができています。
聖書翻訳は、言葉に神学を込める行為であり、共同翻訳は、異なる信仰が出会い、理解し合うプロセスでもありました。
それこそ、日本の聖書翻訳の歴史が持つ、もっとも美しい側面であり、すべての宗教が和合する道を示してくれるものでした。祈

