聖書から見た共産主義―第1回 神を否定する思想のはじまり

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私たちが共産主義を考えるとき、まず根本にあるのは「唯物論」と「無神論」です。

カール・マルクス自身が宗教を「民衆のアヘン」と呼び、信仰を社会から排除すべきだと主張しました。

宗教は人々を眠らせ、搾取に耐えさせるための道具にすぎないと断じたのです。

そこから生まれた思想は、神を否定し、人間の理性と物質的条件を唯一の基準としました。

しかし聖書は、神を否定することこそが、最も愚かで危険な出発点であると繰り返し警告しています。

 

神を無視する思想がもたらすもの

詩篇には次のような言葉があります。

 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。(詩篇14篇1節)

ここで「愚かな者」とは、単に知識が乏しい人のことではありません。

知識や論理を持ちながらも、あえて神を退け、自らの力だけで世界を説明しようとする人のことです。

聖書は、神を無視する思考が道徳的腐敗に直結すると断言します。

実際、共産主義は「神はいない」「この世は物質だけで成り立っている」と宣言しました。

その結果、命の尊厳や倫理は「社会的に有用かどうか」で測られるようになり、人間が道具や部品のように扱われました。

ソ連のスターリン時代には、数千万人が粛清や強制収容所で命を落とし、中国の文化大革命では、数多くの教会や聖書が破壊され、信仰者が迫害を受けました。

これらは無神論を土台とした体制がもたらした悲劇でした。

 

無神論が生み出す道徳的空白

詩篇53篇も同じことを繰り返しています。

 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。(詩篇53篇1節)

人は神を恐れる心を失ったとき、何が正しいかを判断する基準を失います。

聖書は「主を恐れることは知恵のもとである」(箴言9章10節)と語ります。

その基盤が失われると「力ある者が支配する」社会へと転がり落ちてしまうのです。共産主義国家の歴史はその証拠です。

ソ連では正教会の聖職者が多数処刑され、中国では、「天安門事件」の背景に無神論的権力構造がありました。

信仰や良心が公的に否定されると、人間の尊厳を守る防波堤は崩れ、権力の思うままに人々が犠牲となります。

 

神を拒む思想の根にあるもの

無神論の背後には単なる思想以上のものがあります。それはしばしば「神の座に自分を置こうとする心」です。

イザヤ書にはこう記されています。

 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。(イザヤ14章13〜14節)

これはサタンの心を象徴する言葉です。神を否定することは、突き詰めれば「自分が神となる」ことを意味します。

共産主義もまた「人間が歴史を動かす唯一の主体だ」と宣言し、人類の救いを「神」ではなく「革命」に求めました。

そこには悪魔的な傲慢が潜んでいます。イエスもユダヤ人指導者に対してこう語りました。

 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。(ヨハネ福音書8章44節)

悪魔は人殺しであり、真理を退ける存在です。この言葉は、無神論を掲げて数えきれない人々を犠牲にしてきた共産主義体制と重なって見えます。

 

現代に潜む「神なき思想」

今日、表立って共産主義を信奉する人は少ないかもしれません。しかし「神はいない」「信仰は時代遅れだ」という考え方は、教育や社会の空気の中に根強く残っています。

進化論だけが科学的真理であるかのように教えられ、道徳や倫理が「社会の合意」に過ぎないとされる風潮もまた、神を否定する無神論の延長線上にあります。

聖書はそのような思潮に対して、明確に「愚かなる者」と警鐘を鳴らしています。

神を退けることは、必ず倫理と社会の崩壊につながるからです。歴史はその事実を証明しています。

 

結びに

無神論は単なる学説ではなく、聖書から見れば「愚かさ」であり「危険な思想」です。

共産主義の根にあるこの無神論を直視するとき、私たちは信仰の価値を一層強く理解できます。

歴史に学ぶならば、神を拒む社会がどれほど多くの血を流し、文化や伝統を破壊してきたかを見逃すことはできません。

同時に、神を認める社会こそが人間の尊厳を守り、真の自由を与える基盤となるのです。

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