聖書から見た共産主義―第2回 思想や理論が神にすり替わるとき

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共産主義は出発点から「神を否定する思想」でした。しかし、神を退けたあとに、人間が空白を放置することはありません。

人は何かを拝まずには生きられない存在です。神を否定した社会は、必ず別の「偶像」を立て、それを絶対視します。

共産主義が歩んだ道は、まさに「思想の偶像化」の歴史だったのです。

 

偶像化のプロセス

ローマ人への手紙にはこう記されています。

 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。(ローマ人への手紙1章21〜23節)

神をあがめる代わりに、人は自らの思想や制度を神格化してしまいます。

共産主義の国では、「唯物史観」や「階級闘争」が絶対的な真理とされ、神学の代わりに「マルクス・レーニン主義」が信条となりました。

人々は聖書を読む代わりに『資本論』を学び、指導者の言葉を聖典のように暗記しました。

聖書はその根を「むなしい思い」と呼びます。神を退けると心は空虚となり、必ず別のものを神の座に据えるのです。

 

危険な人間中心の思想

コロサイ人への手紙でも警告されています。

 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 (コロサイ人への手紙2章8節)

ここでいう「哲学」とは、人間中心の思想体系です。思想そのものが悪いのではなく、それが神の真理に取って代わるとき、人を「虜」にしてしまうのです。

共産主義思想も、解放と平等という理想を掲げながら、結局は人を縛り、思想統制と恐怖政治をもたらしました。

これは、人間の理論を神にすり替えるときに避けられない帰結です。

 偶像崇拝=悪霊崇拝

さらに聖書は、偶像崇拝を単なる迷信とは見ません。それは背後で悪霊への奉仕に直結していると語ります。

 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(コリント人への第一の手紙10章20節)

 彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。(申命記32章17節)

共産主義が「偶像」としたのは、木や石の像ではありませんでした。そこに据えられたのは「理論」であり「国家」であり「党」でした。

しかし、聖書の視点で見れば、それもまた悪霊の力に仕えることと同じです。「思想の偶像化」は悪魔崇拝と本質的に変わらないのです。

 

歴史における「思想の偶像化」の実例

この「思想の偶像化」は、歴史上に具体的な形で現れました。

ソ連ではレーニンやスターリンの肖像画が街中に掲げられ、事実上「聖像」のように崇められました。

中国では毛沢東の『語録』が「赤い聖書」と呼ばれ、信徒が御言を暗唱するように、人民がそれを唱和しました。

北朝鮮においては、金日成・金正日が「太陽」と呼ばれ、家々には必ず指導者の肖像が掲げられています。

これらは単なる政治宣伝ではなく、明らかに宗教的儀式の代替でした。

神を退けた結果、人間の思想と権力がその座を奪い、「擬似宗教」として機能したのです。

 

現代社会における思想崇拝

では、現代の私たちには関係がないのでしょうか。決してそうではありません。

今日もなお「経済成長こそ絶対」「科学がすべてを解明する」「テクノロジーが人類を救う」といった考え方が、人々の信仰のように語られることがあります。

もちろん経済や科学は重要ですが、それらを「神」の座に据えるなら、同じ過ちを繰り返すことになります。

聖書は「むなしい思い」と「偶像崇拝」への警告を時代を超えて語り続けているのです。

 

結びに

共産主義は無神論を出発点とし、やがて「思想の偶像化」という道を歩みました。

聖書が指摘するように、神を退けた人間は必ず別のものを神にすり替えます。そのとき人は自由を失い、悪霊の支配下に置かれてしまうのです。

わたしたちも自分の心を省みる必要があります。知らず知らずのうちに、「理論」や「お金」、「権力」といった偶像を拝んでいないでしょうか。

聖書は私たちに「主を恐れることは知恵のはじめ」であると教えています。

人間の思想や理論が神の座を奪うとき、そこには必ず崩壊が待っています。だからこそ、真の神をあがめることが、自由と平和の唯一の道なのです。

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