聖書と千島・森下学説―第7回 終末と細胞可逆説

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聖書は「終末において人は朽ちない体に変えられる」と語ります。パウロはコリント人への第一の手紙15章で、復活の体について次のように述べました。

 の朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 (コリント人への第一の手紙15章53節)

人間は肉体の死を免れません。しかし終末には、新しい命を受け、朽ちることのない体に変えられるというのです。

この「変化」の奥義を、千島・森下学説の「細胞可逆説」に重ね合わせてみると、霊的真理と生命現象が一致していることが見えてきます。

 

細胞可逆説―命のリセット

千島・森下学説によれば、赤血球は万能細胞としてあらゆる細胞に分化します。

そして断食や飢餓の状態では、逆に分化した細胞が赤血球へと戻ることができるとされます。これが「細胞可逆説」です。

つまり、生命体は「古い細胞を赤血球に戻し、そこから再び新しい細胞を生み出す」というリセットの仕組みを持っています。

このプロセスが繰り返されることで、体は部分的に更新され、老化や損傷から回復する可能性を持つのです。

 

聖書における「新しい体」

聖書は復活の体を「朽ちない体」と表現します。パウロはこう言います。

 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、(コリント人への第一の手紙15章42節)

 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。(同15章44節)

ここでは、古い体が壊れ、新しい質の体に造り替えられるというビジョンが描かれています。

細胞可逆説の視点から見ると、この「古い体から新しい体へ」という転換は、細胞レベルでも起こり得る現象の延長線上にあると考えられます。

 

可逆性と復活の希望

千島・森下学説が示す可逆性は、生命が「やり直しの可能性」を持っていることを教えます。

分化した細胞が一度壊れても、赤血球に戻れば新しい細胞に生まれ変わることができる。これは生命の根本的な希望です。

聖書の復活の約束もまた、人間の存在が「やり直しの可能性」を持つことを告げています。

死で終わるのではなく、新しい命に造り替えられる――まさに神による究極の可逆性です。

 

断食・死・復活の相似

断食によって細胞が赤血球に戻り、そこから新しい細胞が生まれるように、死によって古い体が壊れ、神によって新しい体に変えられる。

この相似は非常に示唆的です。断食は肉体的・霊的リセットの象徴であり、死と復活の予表とも言えるでしょう。イエスご自身も断食の後に公生涯を開始し、十字架の死の後に復活されました。

千島・森下学説が解明する可逆的プロセスは、聖書が語る死と復活の奥義を自然界に刻まれたサインとして映し出しているのです。

 

朽ちない体への転換

科学的には、赤血球の万能性と細胞可逆性は「肉体の再生能力」を指します。

霊的には、イエスの復活と終末の約束は「存在の刷新」を指します。両者を重ねると、次のようなビジョンが見えてきます。

今の体は老い、やがて壊れる。

しかし血(赤血球)の可逆性により、体は部分的に新しくされ続ける。

終末には、神によって完全なリセットが起こり、朽ちない体が与えられる。

肉体と霊の両面で「古いものが壊れ、新しいものが造られる」という同じ原理が働いているのです。

このように細胞可逆説は、生命が自らを刷新する可逆性を持っていることを示しました。

また聖書は、人間存在そのものが死を超えて新しくされると語ります。

赤血球=万能細胞の可逆性は、霊的復活の予表のように見えます。

肉体も霊も、古いものが壊れ、新しい命に変えられる。これこそ神の創造の奥義であり、終末に与えられる「朽ちない体」への希望です。

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