これまでの連載では、聖書に記された「血」「水」「霊」に関する表現と、千島・森下学説の三本柱(腸造血説・赤血球分化説・細胞可逆説)を照らし合わせてきました。
驚くべきことに、古代の聖書の言葉と近代以降に提唱された学説が、同じ命の真理を指し示していることが見えてきました。
最終回では、これまでのポイントを総括しつつ、「聖書の先見性」という視点から全体を振り返ってみたいと思います。
1. 腸造血説と「腹から流れ出る生ける水」
ヨハネによる福音書7章38節で、イエスは次のように言われました。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。
伝統的には聖霊を象徴する言葉とされてきましたが、「血=命」と読むなら、生ける水は血液を指すとも解釈できます。
千島・森下学説の腸造血説――血は腸から造られる――に照らすと、この「腹から流れ出る」という表現は肉体的にも正しいのです。
聖書は2000年前に、血の源泉が「腹」にあることを示唆していたといえるでしょう。
2. 赤血球分化説と「血は命」
レビ記17章11節は「肉の命は血にある」と宣言しました。ヨハネによる福音書の6章53節では、イエスが「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と語られました。
千島・森下学説によれば、赤血球は万能細胞として体のすべての細胞に分化していきます。つまり血こそが体を造り、命を支える母体なのです。
聖書が古代から「血=命」と繰り返し語ってきたのは、象徴的表現ではなく、生命の実相を直観していたと考えられます。
3. 細胞可逆説と断食や節食による体の刷新
断食や節食をしたとき、分化した細胞が赤血球に戻る――これが細胞可逆説です。断食や節食によって体はリセットされ、新しい細胞が生まれます。
聖書もまた、断食や節食を通じて人が新しくされることを語ります。古いものが壊れ、新しいものに造り替えられるという構造は、肉体的にも霊的にも共通しているのです。
「どうぞ、しもべらを十日の間ためしてください。わたしたちにただ野菜を与えて食べさせ、水を飲ませ、そしてわたしたちの顔色と、王の食物を食べる若者の顔色とをくらべて見て、あなたの見るところにしたがって、しもべらを扱ってください」。家令はこの事について彼らの言うところを聞きいれ、十日の間、彼らをためした。十日の終りになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた。(ダニエル書1章12~15節)
4. 御霊・水・血の一致と生命循環
ヨハネによる第一の手紙5章6〜8節はこう語ります。
このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。
千島・森下学説の枠組みに重ねれば、
血=赤血球(万能細胞)
水=体液の基盤
御霊=秩序と情報の原理
この三つが一致して命を証しするという聖書の言葉は、生命循環の実相を象徴的に言い当てています。
5. 贖いと血の循環
出エジプトの過越祭では、家の門に塗られた血が民を守りました。新約では、イエスの血がすべての人に救いをもたらしました。
千島・森下学説でも、赤血球は全身を巡り、すべての細胞を生かします。血は区別なく全体を潤し、命を更新します。これはまさに「普遍の救い」と重なります。
6. 可逆性と復活の体
細胞可逆説は、生命が「戻る」ことで再生する仕組みを明らかにしました。聖書は「古い体が壊れ、新しい体に変えられる」復活の希望を告げます。
細胞の可逆性は、朽ちない体への転換の予表のようです。肉体的現象と霊的真理が同じ秩序の中で働いていることを示しているのです。
まとめ―聖書の先見性
千島・森下学説はまだ主流医学からは受け入れられていませんが、その視点は聖書の生命観と不思議なほど一致しています。
血は腹から造られる(腸造血説)
血は命を生み出す万能細胞である(赤血球分化説)
血は古いものを戻して新しい命を生み出す(細胞可逆説)
そして聖書は、古代から「血=命」「御霊・水・血の一致」「断食による刷新」「朽ちない体」という命の真理を語り続けてきました。
科学と信仰は別々の領域に見えますが、根源では同じ命の奥義を照らしているのです。
聖書の言葉は、現代科学をもってしてもなお解き明かされ続ける「先見の書」であるといえるでしょう。

