1. 現代における“進化論という宗教”
現代社会では、進化論はほぼ自明の前提として語られています。
学校教育、メディア、一般書籍において、進化論は「科学が証明した事実」とされ、生命の歴史も、人間の起源も、すべて進化論の枠組みの中で理解されています。
しかし、この状況は科学的成果の反映というより、進化論が事実上、「宗教」として権威化された結果と言うべきです。
本来、進化論は“偶然による世界”を前提とする一つの仮説にすぎません。
ところが現代では、その仮説が絶対視され、人間の本質、言語の起源、倫理意識、霊性など、進化では説明できない領域にまで無理に押し広げられています。
私たちがいま行うべきことは、進化論に配慮しながら議論することではありません。
進化論そのものが間違っている理由を、科学的、哲学的、神学的に突きとめ、神による創造こそ、唯一の合理的説明であることを正面から主張することです。
2. 進化論の根本的欠陥は“科学”ではなく“哲学”にある
進化論はしばしば「科学」として扱われますが、その本質は科学を装った“哲学的世界観”です。
その基盤は、超自然的存在の否定であり、世界に目的は存在しないという前提であり、偶然こそ創造主であるという思想にあります。
こうした自然主義的前提は、科学的に証明されたことは一度もありません。
進化論は“神を排除するために採用された哲学”であり、科学的事実に基づいて採用されたものではありません。
3. 生命・人間・言語――「進化論が最も説明できない領域」
進化論が最も苦手とするのは、まさに生命の本質部分です。
①生命の起源
無生物から生命が生じる現象は観察されたことがありません。生命の基盤であるDNAは、意味・文法・冗長性を持つ巨大な情報体系であり、偶然の化学反応では決して形成されません。
②人間の特異性
人間が持つ、抽象思考、良心、自己犠牲、信仰、言語、芸術、科学など、動物には存在しない能力は、進化論の“生存競争”の理論では説明不可能です。
③言語
最も致命的なのは言語です。言語は意味と文法を備えた“体系”であり、偶然の発声や模倣から生まれるものではありません。
狼少女の事例が示すように、人間は「言語を教える存在」がいなければ言語を獲得できません。
つまり、言語の存在そのものが、進化論の誤りを暴く最大の証拠
なのです。
4. 聖書的創造観こそ、宇宙・生命・人間を最も整合的に説明する
創世記は、神が「言(ロゴス)」によって世界を秩序立て、人間を“神のかたち”として創造したと語ります。
この聖書的世界観が示す宇宙像は、目的を持つ宇宙、秩序ある自然法則、意味と情報に基づく生命、言語を介して関係を結ぶ人間というものであり、現代科学が発見してきた事実と見事に一致します。
むしろ、進化論こそが生命の複雑性、宇宙の美しさ、人間の霊性を説明できない“不合理な世界観”と言えます。
5. 科学と信仰は本来調和し、進化論こそ科学精神に背く
科学の父と呼ばれるニュートン、ケプラー、ガリレオ、ボイル、マクスウェルらは、すべて創造主への信仰を土台に研究を行ったことが歴史から明らかです。
彼らは、「自然界には神が与えた秩序がある」という確信を持っていたからこそ、自然法則を探求する意義を見出しました。
これに対して進化論は、反証不可能な仮説を事実のように扱い、証拠の欠如を哲学的前提で補うという意味で、むしろ“非科学的”であり、思想的硬直性を生む要因となっています。
科学と創造信仰は本来調和します。対立するのは“科学”ではなく、自然主義的進化論という思想だけです。
今こそ進化論を否定し、神による創造を主張するべき時が来ました。
生命、言語、倫理、霊性、宇宙の秩序――このどれ一つとして進化論では説明ができません。
そして、それらすべてが聖書の語る創造のロゴスと完全に一致しているのです。
次回:進化論の哲学的前提とその崩壊―言語存在論が暴く「意味なき宇宙」という虚構

