聖書と禅シリーズ④「知ろうとするな、ただ見よ」―理解ではなく、体感が真実に導く

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「神を知りたい」「信仰を理解したい」
そう願うことは、まっすぐで誠実な思いです。

しかし、禅の教えはこう語ります。

「知ろうとするな。ただ見よ。」

これは、クリスチャンにとっても、とても示唆に富む言葉ではないでしょうか。

知識は“入り口”にすぎない

信仰を持ったばかりの頃、熱心に神学書を読みました。教理を理解すれば、もっと神に近づけるような気がしたのです。

でも、あるときふと気づいたのです。

どれほど知識が増えても、心の深いところで神を感じることが、なかなかできないと。

知識は必要です。しかし、それはあくまでも“道しるべ”。目的地に着くには、自分の足で歩くことが必要です。

禅問答は「考える」ためではなく「気づく」ためにある

禅の世界には、「公案(こうあん)」と呼ばれる問いがあります。

「父母未生以前の本来の面目(ほんらいのめんもく)とは何か?」
「手を打たずに、どんな音が鳴るか?」――

どれも、論理で解けるものではありません。

頭で答えを出そうとすればするほど、遠ざかってしまうような問いばかりです。

なぜなら、これは“悟り”のための問いではなく、“悟りに出会う自分”を整えるための問いだから。

つまり、「考える」ことから「感じる」ことへと軸を移すための訓練なのです。

イエスも“見る者”を求めた

イエスがしばしば語られた言葉に、こうあります。

「耳のある者は聞くがよい」(マタイ11:15)

これは、頭で理解するというよりも、霊で受け取るようにという呼びかけではないでしょうか。また、ペテロの告白の場面も印象的です。

「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と答えたとき、イエスはこう言われました。

「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」(マタイ16:17)

つまり、本当の“気づき”や“悟り”は、神から与えられるものなのです。私たちの知識や努力だけで、そこに至ることはできません。

理解ではなく、応答が信仰をつくる

神を理解しようとすることは大切ですが、神はしばしば、理解を超えたかたちで私たちに近づかれます。

それに対して私たちにできるのは、“分析”ではなく“応答”です。

祈り、黙想し、み言を静かに読みながら、神が語ってくださることに、そのまま「はい」と応える。

まさにそれが、「知ろうとするな。ただ見よ」という禅の教えと重なる、信仰の姿勢なのかもしれません。

結び:神を“見た”とき、人は変わる

モーセが燃える柴の中で神と出会ったとき、彼は神の名を問います。

でも神は、「わたしは有る」という理解不能な答えを返します(出エジプト記3:14)。

神は、説明される存在ではなく、出会う存在なのです。

禅は「ただ見よ」と語ります。信仰もまた、「ただ信じ、ただ聞け、ただ従え」と語ります。

「見よう」とするその心に、神は今日も静かに、語りかけておられるのかもしれません。

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