私は正直、体を大切にするのがあまり得意ではありませんでした。
「多少無理しても、祈ってればなんとかなる」なんて思っていた頃もあります。
でもある日、過労で倒れてしまったんです。そのとき初めて、「ああ、自分の体は“消耗品”じゃないんだ」と気づかされました。
🕊 「自分のものではない」体に生きる
病床で、ふと開いた聖書に、こう書かれていました。
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」──コリント人への第一の手紙6章19節
その言葉に心に何か静かに落ち着くようになりました。
私の体は、自分の好き勝手に使うためのものじゃない。
神が住まわれる宮として、丁寧に扱うべきものなんだと。
そう思ったとき、健康管理は自己満足のためではなく、神への礼拝の一部だとわかったのです。
🍽 食べることも、信仰の実践
昔の私は、忙しいときには食事をおろそかにしがちでした。
でも、こんな言葉があります。
「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。」──コリント人への第二の手紙9章10節
「食べること」は生きるための基本。
同時に、神の恵みを受け取る行為でもあります。
たとえ簡単な食事でも、「いただきます」と心から祈って食べることが、私の内側を整えてくれました。
💤 休むことは、信仰の表れ
「休んではいけない」と思っていた自分に、神はこう語ってくださいました。
「あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。」──出エジプト記23章12節
神ご自身が、創造の働きのあとに休まれました。
人が休むことを命じられたのは、弱いからではなく、神に似せて造られたからなんだ、と知りました。
それ以来、私は「休むこと」に罪悪感を抱かなくなりました。
むしろ、安息は信仰のしるし。神にゆだねる姿勢なのです。
🧠 心の健康も、主のケアの対象
最近は「心の健康」も大きなテーマです。
不安、焦り、孤独…、私自身、そうした波に飲み込まれそうになることがあります。
でも詩篇はこう語ります。
「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。」──詩篇147編3節
神は、心の奥深くにある傷にも手を伸ばしてくださるお方。
教会や信頼できる人に心を開くこと、祈って泣くこと、ただ静かに御言葉を聞くこと…
それらすべてが、神の癒しのプロセスだと信じています。
✨ 結び:「健康管理」は自己中心ではない
この頃は、少し早起きして朝の光の中で聖書を読み、
ゆっくり食事をし、無理せず予定を入れるようにしています。
それは、何か特別なことではありません。
でもその一つ一つが、「私の体は主のもの」という信仰の告白なのだと思います。
「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」──ローマ人への手紙14章8節
今日も、主が与えてくださったこの体で、主をあがめて生きていきたい。
そう祈りながら、一歩一歩、歩んでいます。
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