数年前、私はある体調不良に悩まされていました。
病院に行っても、原因ははっきりしない。
検査は「異常なし」、でも、だるさや不安は毎日つきまとう。
思うように働けない日が続くと、次第に「こんな自分にはもう何もできない」と感じるようになっていました。
そんなとき、ある方から手紙が届きました。
そこにはこう書かれていたのです。
「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」(ヨハネの第三の手紙1章2節)
私はそれを読んで、思わず涙を流してしまいました。
心の底から「ああ、自分の健康のことを祈ってくれている人がいるんだ」と思ったからです。
それだけで、心が少し温かくなったのを覚えています。
食事にすら、神の愛が込められている
しばらくして、生活のリズムを見直そうと思い、まず食事から整えていきました。
以前は忙しさにかまけて、朝を抜いたり、夜中に即席めんだけという日もありました。
でも、心を込めて「いただきます」と祈ってから食べるようになったら、不思議とその食事が「恵み」に感じられるようになったんです。
イエス様はこのように言われました。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書4章4節)
食べること、それ自体も神がくださった祝福。
でも、それと同時に、「神の言(ことば)」によって生かされていることを忘れてはいけないんだな…、そんなふうに思わされました。
病気の中で、私は主に出会った
体の不調はすぐには治りませんでした。
でも、教会の人たちが集まって祈ってくれたとき、不思議と「もう一人じゃない」と思えるようになりました。
「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる」(ヤコブの手紙5章15節)
私は、自分が病の中で、「ああ、治してください」とばかり願っていたことに気づきました。
でも、それだけじゃなくて、主は「あなたの心にも触れたい」と語ってくださっていたんですね。
それに気づいてから、少しずつ、体の状態も整っていきました。
完全に治ったわけではありませんが、今では心に平安があるのです。
自分の体を、神への礼拝として
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」(コリント人への第一の手紙6章19節)
このみことばを読んだとき、自分の体を「道具」ではなく、「神が住まわれる場所」として大切にしようと思いました。
栄養をとること、休むこと、無理しすぎないことも、神への礼拝の一部なんだと知ったのです。
結び:神とともに、日々を生きる
今、私の健康は完璧ではありません。
でも、神がともにいてくださる。
その確信があるから、私は今日も食べ、祈り、歩んでいます。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第一の手紙10章31節)
この一日が、読んでくださったあなたにとっても「主とともにある恵みの日」となりますように。
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