人間にとって食事は、生きるために欠かすことのできない営みです。
しかし同時に、食欲はしばしば人を支配し、生活を乱し、健康を損なう原因ともなります。
日本には「腹八分目に医者いらず」ということわざがありますが、これは単なる経験則ではなく、聖書の教えにも通じる知恵なのです。
1. 聖書が語る大食の危険
箴言23章20〜21節には、次のようにあります。
「酒にふけり、肉をたしなむ者と交わってはならない。酒にふける者と、肉をたしなむ者とは貧しくなり、眠りをむさぼる者は、ぼろを身にまとうようになる。」
これは口語訳ですが、「肉をたしなむ者」という箇所が二つあります。
この箇所の英語訳(KJV)を見ると、最初の箇所は「riotous eaters of flesh」で、その意味は「肉を放蕩に食べる者たち」です。次の箇所は「glutton」で「大食」という意味です。
韓国語訳(改訳改定版)では、「탐하다(タマダ)」で「むさぼる・がつがつする」という意味です。
口語訳だと「たしなむ」となっているので、適度に食べているように思えますが、ここで言わんとしているのは、暴飲暴食に対する警告です。
暴飲暴食は体を壊すだけでなく、生活を怠惰にし、結果的に貧困や不幸を招くというのです。
2. 腹八分目の生理学的根拠
現代医学の研究でも、過食が肥満や糖尿病、心臓病など多くの生活習慣病を引き起こすことは明らかにされています。
一方で、摂取カロリーを適度に抑える「カロリー制限」が寿命を延ばすという動物実験の結果も多数報告されています。
「腹八分目」とは、ただ食事量を減らすことではなく、体が必要とするエネルギーに見合った分だけ食べるという節度の実践です。
空腹を少し残すことが代謝を整え、内臓を休め、体を長持ちさせる知恵だと言えるでしょう。
3. イエスの食に対する「節度」
新約聖書には、イエスがしばしば食卓を囲んだ場面が描かれています。弟子たちや群衆と共にパンを裂き、魚を分け合う姿はよく知られています。
そこには、贅沢や暴食ではなく、必要なものを感謝して分かち合う姿勢が一貫して表れています。
また、ヨハネによる福音書の6章では、イエスが5000人の群衆に食べさせる奇跡の話があります。
「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。」(ヨハネ福音書6章12~13節)
イエスは人々の空腹を満たしたのち、残ったパンくずを拾い集めるように言われました。無駄なく、節度をもって食を整えることこそ、神の祝福だと分かります。
4. 現代生活への応用
私たちの現代生活では、食べ物は豊富にあり、いつでも手に入ります。その環境の中で「腹八分目」を実践することは、ある意味で信仰の実践でもあります。
食べる前に祈り、感謝する
→ 感謝の心があれば、過食や浪費に歯止めがかかります。
時間を決めて食べる
→ 不規則な間食や夜食を避け、体内リズムを整えることにつながります。
満腹ではなく「ちょうどよい」感覚を大切にする
→ 体の声に耳を傾け、必要な分で満足できるようにする。
5. 結び―腹八分目は信仰の実践
「腹八分目」という知恵は、単なる健康法ではありません。それは、自分の欲望を節度の中に収め、神の前に謙虚に生きる信仰の実践でもあります。
食べすぎは体を壊すだけでなく、心を鈍らせ、神との交わりをも曇らせてしまうことがあります。反対に、節度を守って食を楽しむとき、体も心も健やかになり、日々の生活に感謝があふれてきます。
イエスが示された食卓の姿勢を思い起こしながら、私たちも日々の食事を「腹八分目の知恵」として生かしていきたいものです。そこにこそ、長寿と幸福の秘訣が隠されているのです