『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説10-イサク献祭の意義とエジプト苦役路程がヤコブから始まった理由

この記事は約7分で読めます。

『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説10
イサク献祭の意義とエジプト苦役路程がヤコブから始まった理由

 神の約束の祭物に失敗したことは、サタンに子孫を奪われることの表示となり、アブラハムの子孫にもサタンが侵入できるようになった。そのことがまたもや根本目的が成就しないその基因となったため、神は再びサタンがアブラハムの子孫に侵入する道を防がなければならなくなったのである。

 代身(だいしん)となる祭物がサタンに奪われたことは、すなわちアブラハムの子孫をすべて失ってしまったのと同様だったため、アブラハムがサタンの意志を成就したのと同じ結果をもたらした。つまりサタンに祭物を捧げたのと同じことになってしまったのである。それゆえ、アブラハムもサタン所有の根拠点となり、すべての目的が未成就となったのである。

 約束の祭物は奪われたとしても実体の子孫は奪われまいとされた神は、アブラハムの民孫(みんそん:民族と子孫)にサタンが侵入するのを防ぐため、やむを得ず祭物の代わりに、その子孫自体をサタンと神との間において直接の問題となる要求物にされたのである。そのため神は、アブラハムの子イサクをとらなければならず、サタンはすでにイサクをとることができる条件として、約束の祭物であり代身(だいしん)の祭物を所有していたため、サタンもやはりその祭物の代身となる実体のイサクを要求したのである。

 ゆえに、神は再び従順の条件を立てることによってすべての子孫を神の側に取り戻すため、アブラハムに対して実体の子イサクを祭物として捧げる問題を提起したのであった。神がアブラハムをして、モリヤ山上でイサクを祭物として捧げるように言われた根本意義はここにあった(創世記二二章二節)。そのときみ旨を中心として従順に行動すれば、サタンが離れて神の側に属するようになるのである。そしてアブラハムは、失ってしまった代身の祭物を実体で取り戻す献祭の命令にそのまま従ったのである。

 このときにアブラハムは、このような原理的問題は知ることができなかった。このような立場でアブラハムが従順に行動することは、容易な問題ではなかったのである。しかし、約束と代身の祭物献祭の失敗がすべての子孫に四〇〇年間の苦役をもたらしたことから、今回失敗すれば言うに言えないほど大きな難しい問題が起こると考えたアブラハムは、全的に神の命令に従い、み旨のとおりに燔祭として息子を捧げる確固たる立場に立ったのである。これによって、目的の相対であるイサクからサタンが退き始めたと見ることができる。

 現在の人々は、この事実の根本意義を知ることができていないが、聖書にもアブラハムが失敗したことを知らせる聖句がある。すなわち創世記二二章一二節を見れば、アブラハムがイサクを殺そうとするとき、神が「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と言われたとある。この聖書の聖句にある「今知った」という語句が、すなわち献祭の失敗に対する警告であると同時に、み旨継承の成就を告げるものであった。

 こうして、人間が神のみ旨の路程を歩んでいくその途中で、約束と代身の祭物献祭に失敗したため、アブラハムの子孫は四〇〇年間 怨讐の前で苦役して初めて本路程に入るようになったのである。したがって、イスラエル民族のエジプトでの四〇〇年の苦役は必然的な過程であった。

 サタンは、イサクが実体でみ旨を立てることができなければ、再びその子孫に対して対立的態度をとることはもちろん、実体の子孫に対して再び侵入する道を見出そうと試図(しと:試み企てること)していた。約束と代身の祭物にサタンが侵入したため、過ちを犯せばイサクにも不従順の基が生じ始める可能性があるがゆえに、サタンはそれを期待しながらついてくるようになった。それは、祭物を自分のものにしたという事実があるため、依然としてサタンはその子孫に対立性をもって対するようになっていたのである。(注二十七)

 そして、イサクに生まれた息子が双子のエサウとヤコブであった。この双子は何を意味するのかというと、アブラハムの失敗によって祭物に願わざる存在の侵入があったため、実体の息子イサクが問題となり、イサク献祭の成功によって再び取り戻したのだが、そのイサクの息子に対しては、やはりサタンがとり得る一つの基を譲歩せざるを得なかったのである。(注二十八)したがって、その双子の息子は、怨讐が所有する者と神が所有する者が一つの胎中にいることを表示する存在であった。それゆえ、エサウとヤコブが腹中から争ったというのは、このような根本に背馳(はいち)する存在ゆえに争ったのである。(創世記二五章二二~二三節)

 こうして生まれたエサウとヤコブは、エサウが怨讐サタンの代表であり、ヤコブが神の側の代表である。すなわちエサウは、先に失敗したアブラハムの象徴祭物を根源とする立場であり、次のヤコブは、失ったイサクを実体で取り戻し、祭物まで取り戻した立場であった。神が第二次的存在(次子)であるヤコブを通してみ旨を立てようとしたのは、根本の立場がそのようになっていたからであり、奪われたアブラハムの祝福(創世記一二章二節)を再び奪い返して成就したかたちにするためである。神がエサウの祝福をヤコブへと取り戻させた根本意義はここにある。(創世記二七章二七~二九節)

 祭物の失敗がなければ、イサクの息子に神が憎むエサウのような存在はなかったはずである。存在してはならない存在が生じるようになったのは、サタンを分立し、再び天の側とサタンの側に分立するためであった。それは、サタンが二度とアブラハムの子孫に未練を残さないようにすることが目的である。これを表示する事実として、ヤコブがエサウから長子の職分を奪い返したことを知らなければならない。これは、イエスが来て怨讐の血を受けた全人類を再び奪い返してくることを予告する事実でもある。

 それゆえ、このような一つの事実がみ旨の根本を明らかにしてくれると同時に、み旨成就の一つの象徴でなければならないのは、アブラハムに与えた祝福の誓いがみ旨の全目的を表示する約束だったからである。このような意味で、分岐される一人の存在がイサクであり、その子孫であるエサウとヤコブの間でそれが実体として展開したのである。

 このように、堕落の結果とその影響を受けて生まれたため、長子は神から愛を受けることができない。これは創世記全般で見られる事実である。例えば、イサク、ヤコブ、ヨセフ、エフライムはすべてアベルの立場だが、実際にはサタンの血を受けて生まれたため、長子がカインの立場として神の憎しみの相対となったのである。

 そして、み旨成就のためにエジプトに出発した子孫は、ヤコブを中心に選ばれた十二人兄弟の民だが、十二支派の出発をヤコブから始まるようにした理由は、このような根本意義を見て知ることができる。イサクは神とサタンが共に所有を願う立場の存在であり、アダムと同じように二つの相対格をもつ立場だったため、根本として出発できなかったのである。エジプト出発がイサクからではなくヤコブからになった理由が、以上の解説の中で原理によって明白となった。

 こうして選ばれた天の民となるべきその根本存在がエジプトに移っていくようになり、それがみ旨成就に向かう最初の出発である。(「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と称する原因がここで生じるようになった)ここから神とサタンが分立された復帰摂理路程が出発し、神の責任分担成就が始まることを知らなければならない。(『原理原本』p134~141より引用)

(注二十七)
 イサクが生まれたのは、アブラハムが象徴献祭に失敗したあとである。したがって、象徴献祭の失敗によって祭物に侵入したサタンが、分立されていない状態で生まれたのがイサクであった。

 主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。(創世記一五章九節)

 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。(創世記二一章二~三節)

(注二十八)
 アブラハムの最初の息子が誰かというとイシマエルです。その母がハガルです。イシマエルを先に生み、イシマエルが十三歳のときにイサクが生まれました。十三数を中心として間隔を置き、分別されたものが一つにならなければなりませんが、サラがハガルを抱きかかえることができませんでした。憎んで追い出したというのです。
 ハガルとイシマエル、そしてアブラハムも分かれることを願いませんでしたが、サラが許さずに分かれたので、ヤコブ家庭でレアとラケルに分かれたのです。イシマエルの母ハガルとイサクの母サラが分かれ、それが歴史的な家庭分裂の起源になりました。(『文鮮明先生御言選集』四九四―二八〇、二〇〇五・五・五)

 アブラハムの家庭でハガルとサラが争い、イシマエルとイサクが争いました。ですから、イサクの息子、エサウとヤコブの歴史は、これを消化するためのものです。カイン圏に入っている長子の特権をアベルが奪い返えさなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 四七三―三〇九、二〇〇四・一〇・一七)

タイトルとURLをコピーしました