『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説2-神が「言(ことば)」ですべてを創造されたというみ言の意味

『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説2

神が「言(ことば)」ですべてを創造されたというみ言の意味

聖書に神は「言(ことば)」によって万物を創造されたとある。その「言」とはそのごとくの意味ではなく、「言」の中には、神の理想の表示体であることの証拠となり、その理想をそのまま他の存在物として現立(げんりつ:現実に存立すること)させるという重要な目的がある。それゆえ、ヨハネ福音書一章二節から三節に、「この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と書かれているのである。

この「言」の意義は、神の理想が第一存在の心で計画され、それが「言」を通して第二存在として確立されるまで一つの過程期間が必要であり、その期間に理想と実体存在とを仲立ちする役割を「言」が分担するためそのように表示したのである。言い換えれば、第一存在の心の実相を第二存在の実体として完成することが「言」の中心目的である。神の根本創造の理想形をそのまま実体万物の形に展開させたため、「言」で造られたと言ったのである。(注十九)

このように、「言」が実現されたところに理想を展開することがその根本目的ゆえに、このような名詞で代用されたことが分かり、またそれが「言」の事実的意義となっている。したがって「言」で万物を造られたという表現には、第二存在の性稟が神と直接、一体となっていることが示されている。言い換えれば、「言」で造られたという言葉には、神の根本の形体と性品を展開したという意義があったことを知らなければならない。ゆえに、「言」で造られたとは、相対性を意味していると同時に陰陽性も意味しているということである。「言」の意義はここから始まる。

このような「言」に対する意義は、今まで解読が難しい問題ではあったが、創造原理から見るとき何も難しいことではなく、事実的実体の問題として扱うべきものである。ゆえに、万物は「言」で造られたと宣言されたのである。

創世記の一章を見ると、神が「何々あれ」と言われるとそのとおりになり、そのとおりになった存在に対して「良し」とされ、「夕となり、また朝となった。何日目である」という語句を多く見ることができる。この「夕となり、また朝となった。何日目である」というみ言は何を意味するのだろうか。夕から朝までを一日としているが、それを世俗的に見れば、夕があり朝があれば日数は二日である。しかし、なぜそれを一日と言ったのかというと、ここには大きな意義がある。

一つの個体存在が創造されるとき、蘇生から長成、完成に到達し、神のみ旨に合致するときに「良し」とされた。このことからその期間を時間的な基準で規定することはできない。それゆえ、ここで「夕」とあるのは、神が一つの個体物を創造し終えられたときに対する言葉である。すなわち、一つの被造物体を中心とした言葉である。また朝は夜という時期を経て訪れるものだが、「朝」とあるのは、この物体が完成して新しく出発することを「朝」と表現したのである。したがって、いかなるものも夕から夜の期間を通過しなければならなかったということである。この期間をみ旨にかなうように通過して初めて神は「良し」と言われたのである。

それでは、この夜の期間とは何かというと、神が真理本体として永遠不変であるように、理想の形を表示できる不変の存在として完成したのか完成していないのかという一つの試練期間がすなわち夜の期間であった。それは一つのテスト期間であることを意味する。このすべての結果が神のみ旨にかなう存在になってこそ「良し」と語られるのである。そして、この「良し」というみ言の中には、神が造られたものは永遠であり完全対象存在であるという意味がある。

このように、五日間で造られた万物は、いかなるものも、夕と夜の期間と朝の期間をみ旨にかなうように通過することによって「良し」とされ、これが創造されたものの一つの共通的路線であった。

そして、第六日目に造られた人間は、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と創世記一章二七節にあるのを見ても、前述したように、神の中には男性と女性があったことが分かる。

このようにして造られた人間は万物を主管できる存在であるため、創造されたものが通過した共通の創造規定期間をすべて円満に通過してこそ、主管格の主人公と言うことができる。したがって、人間もやはりこの夕の期間に造られ、夜の期間という試験期間があり、その試験期間を通過したのち、朝の期間から万物主管の理想を根本出発させることを目的とされたのである。

それゆえ、人間は「万物を主管せよ」(創世記一章二八節)という約束を予め受けたのち、実際に主管するために一つの夜の期間である試練期間が必要となった。したがって、朝の期間から理想の主管が始まるはずだったが、この夜の期間に人間は堕落の誘引を受けるようになったのである。

人間の夜の期間はどのような期間だったかというと、少年の時期から成長して成熟するときまでゆえに、理想の愛を行える人格を完成するときまでがその期間であった。創世記一章三十一節に「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」とあるのは、万物を総合して語られたことであって、特に人間だけを中心に「はなはだ良かった」と語られたのではない。それゆえ、人間に対しては夜の時期を通過していないときに「良かった」と言われたが、それは予約的な意味で「良し」とされたのであって、実際の人格に対して「良し」とされたのではなかった。

それでは、神がアダムとエバを造って「万物を主管せよ」と言われたのは何を意味するのだろうか。

すべての万物を主管できる実格(じっかく:実際の資格)を付与するための試練期間が夜の期間であり、万物を主管する根本目的は神の理想の実現化が目的であった。ではアダムとエバは、すべての万物を主管できる権限と統制する位置をどこから受けるはずだったのかというと、それはすなわち神からであった。そして主管完全者は神であられる。ゆえに、神がアダムとエバを万物の主人格にしようとされた根本意義を考えるとき、万物の主管格とは誰を象徴するのかといえば、神を象徴することは誰もが分かることである。(出エジプト記八章二二節)

したがって、神が根本の人間を創造した意義は、実体万物の主管者として造られた実体のアダムとエバが神の体であったということである。そうして神自ら天宙を主管することを目的として人間を創造されたのである。それゆえ、万物の主人公となる実体をもった神としての存在が人間であった。この人間が堕落したため、それに従う万物は、根本の主人を失ってしまった存在となったのである。(『原理原本』p79~84より引用)

(注十九)
 言葉とは何でしょうか。人が原理を通して目的を実践するための中間表示物です。主体と対象の関係を結ぶために言葉を話すのであり、似るために言葉を話します。それで言葉があるのです。神様がみ言で万物を造ったというのは、自分に似るようにするために自分の対象を造ったということです。(『文鮮明先生御言選集』 一〇七─三一四、一九八〇・六・八)

 み言を中心として見てみるとき、実体というものは、(み言が)より発展し蘇生した形態に違いありません。このような実体が現れたところに、初めて喜びが生じます。また、喜びが生じれば、そこから和動の役事(やくじ)が広がります。そうして、現れた実体がある段階まで発展過程を経れば、そこに初めて愛というものが加えられるのです。これが、神様が被造万物を創造された過程です。まず考えがあり、そこにみ言がプラスされて実体を成し、その実体の上に愛が加えられるのです。このような創造過程を通して万物が生成されました。
 考える段階から体系的なみ言の段階に行ったとき、つまり「これこれこのように創造しなければならない」と漠然と考える段階から具体的な内容を添付させ、一つの理論的体系を備えたみ言の実体を成したとき、そこに言葉で言い表し難い喜びが生じるのです。
 ですから、今日の私たち人間のことを考えてみれば、神様が天地創造の理念を中心として、人間を創造するために、無限に努力されたと考えられるのです。どのような過程を通してどのような形に造るかを考えられたということです。(『文鮮明先生御言選集』 二九─三一四、一九七〇・三・一三)

コメント

タイトルとURLをコピーしました