『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説3-人間の堕落の始まりと「命の木」と「善悪を知る木」の意味

『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説3

人間の堕落の始まりと「命の木」と「善悪を知る木」の意味

アダムとエバを創造する前に、無形世界の天使たちは、天使長を中心として神から直接、愛を受けていた。それゆえ、天使長ルーシェルは、神の様々な議論の相対となり、すべての愛を受けていたのである。神の愛は彼らの生命の根本であり、あらゆる幸福の要素であった。

神は無形世界を造っておき、天使たちに協助するようにさせながら、実体万物世界の創造が始まった。有形実体世界を造られたのは、無形世界に存在する自己を有形実体世界を通して繁殖する基(もとい)にすることが目的だったのだが、その中心理想は天使長も知ることができなかった。それゆえ、天使世界、あるいはこの世界では、この中心点を明らかにできなかったため今まで隠されていたのである。

そして、神は有形の実体物を創造し、自己の理想が展開すると共に喜ばれ、同時に天使長も喜んだ。そうして、万物の主人公格のアダムとエバを造られた神は、アダムとエバに対しても愛されるようになった。だからといって、天使長に対しては接することにおいても愛することにおいても遠ざけることはなかった。

しかし天使長は、自分が満足していた以上にアダムとエバが神の愛を受けているため、彼らが存在していないときより自己に対する神の愛が減少したと感じた。そのため、二度とこのように感じたくないと思うと同時に、人間に向かう愛を自分が所有しようという思いから工作を始めた。すなわち、神がエバをこの上なく愛されるため、そのエバを自分の所有にしようと、天使長ルーシェルはまだ成熟していないエバに対して誘引し始めたのである。

創世記二章九節に「命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」とあるのは何かというと、「命の木」はアダムを表示し「善悪を知る木」はエバを表示している。

天使長がエバを見ると美しかったため、エバの愛を奪うためにエバの貞操を奪おうとした。そのとき天使長ルーシェルは、神が許諾していない行動を始めたことで、それ自体の心に恐怖心があった。その恐怖心をもったまま、エバの愛を奪うためにその貞操を奪うと、ルーシェルと愛で一体となったエバは、ルーシェルの心にある恐怖心と共に天使長の知恵を受け、天使長的知恵の所有者になると同時に、恐怖心に刺激を受けたのである。

そうなると、エバは未成熟期にいたが、自らの知恵が明るくなることによって、自分の夫はアダムだということが明白に分かるようになった。それゆえ、何も知らないアダムが自分の夫であるため、再び夫として取り戻そうという思いから、エバはアダムに愛を強要するようになった。そして、強要するエバからの刺激を避けることができず、その要求に応じたため、エバの恐怖心がアダムの心に生じるようになったのである。

神の法理(ほうり:法則と原理)から脱線したことを知ったアダムとエバは、木の間に身を隠し、いちじくの葉で犯行に及んだ部分(腰)を隠すようになった。(創世記三章七節)創造された体は善なるものとして造られたが、もし手や口で取って食べたのならその部分を隠したはずである。しかし、隠した部分で罪を犯したため、そこが神の前に恥ずかしい部分そのものであった。そのようにして堕落というものが始まり、その部分が悪の基根(きこん:根本)と見なされたのである。

それでは、なぜ「善悪の実」と言われたのだろうか。もし天のみ旨どおりに成熟し、理想の愛を交わす存在となったのちに、神がアダムの心に臨在して愛を成就していれば、神の知恵を受けて万物の主人公として完備されると同時に、これが神の理想となるはずであった。しかし、堕落はそれと反対の行動であったため、嘆息せざるを得ない事実である。

それゆえエバの愛は、神の愛すなわちアダムの愛を受けていれば、この上ない善の根本の実となり、善の行動が始まって永遠の善となるはずであったが、それとは反対の行動が悪の根本の実となったエバの愛そのものによって始まったため、「善悪の実」と表示したのである。

「実」という言葉は種という意味であり、善の種もエバとの愛の一体から始まるが、それが悪の種となってしまったのであるから、エバの行動を誰が嘆息しないだろうか。そのため、女性が今まで拘束されてきた事実は、それが原因となっているのである。この拘束から解放され、平等になる時期になれば再臨の時が近いと言えるのもここに原因がある。

キリスト教で「三位一体」という名詞があるが、これは何かというと、神とアダムとエバが完全に一体にならなければならないという中心意義について語るものである。それゆえ、神と人間とは父子の関係になっている。天を中心とする「三位一体」が悪を中心とする「三位一体」になってしまったため、悪の世界であるサタン世界にも「三位一体」が存在する。そしてサタンは、我々人間の父格に置き換えられ、不順、不信、不侍(ふじ)の中心本体として役事(やくじ)してきたのである。

新約聖書を見ると、イエスも不順、不信、不侍な者に対して、ヨハネ福音書八章四四節で「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と言われている。このみ言は、堕落の根本主人格の本体がサタンであることを明らかにしたものである。したがって、蛇とはすなわちサタンを表示したものであることをはっきりと知らなければならない。それゆえ、我々が怨讐の懐にいる子女の立場に置かれていることを知って、再び本然の父を訪ねていく路程が救援路程である。

アダムとエバが罪を犯すと、本来、アダムとエバに注入して授けた神の根本の基(もとい)、すなわち生心を中心に成長し、神が臨在できる基となるべきであったアダムの霊人体(れいじんたい)は、悪に犯された自らの体にそのままいることができず、神が(そこから霊を)引き取られたのである。そして、罪を犯す前の霊が神の右側に座し、第二アダム格として送られたのである。その方が正にひとり子イエスであった。「ひとり子」という名詞の意味もここで明白になる。つまり、罪を犯す前のアダムの霊がイエスの霊として注入され、再び来られたということである。(注二十)

それゆえ、イエスが罪を犯す前のアダムが完全成熟した存在として現れ、福音を伝え始められた目的は何かというと、失ってしまった子女たちを再び取り戻し、堕落前の神の子女に移すことが根本目的である。

今日の人間は、怨讐の懐で拘束され、真の父母を失って生きているがゆえに、その良心の苦痛は、このような事実を知らせてくれる間接的な刺激である。したがって、我々はイエスの懐に移され、神を根本の父として直系の血統関係を結ばなければならない重大責任が残っている。イエスが来られてこれが成就し完成できなかったため、再臨が要求されるようになったのである。

我々は悪の血を受けたため、本然の根本の血を受けて養子の関係から蘇生し、創造理想の父母を復帰することが我々人間の全目的である。嘆息すべきは、養子のような存在となった我々のことを考えれば「恐痛之事(コントンチサ:恐ろしく痛嘆せざるを得ない出来事)」と言わざるを得ないことである。これが悪によって始まったため、このような名詞(「ひとり子」)が生じたのである。

我々の根本である父は永遠の父であり、我々を愛し求めてくださった父でいらっしゃる。この父を父として侍り、また母にも侍るその時期が、すなわち地上で再創造理想が始まる時期である。この時期を知らせ、父と母を再び取り戻す、その喜びが全天宙に訪れることが根本目的である。この目的は再臨の時から始まるのである
(『原理原本』p84~90より引用)

(注二十)
 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。(テサロニケ人への第一の手紙5章23節)

 人間には心と体があり、心の上には霊があり、霊の上には神様がいらっしゃいます。したがって人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。(『文鮮明先生御言選集』 五〇二―九〇、二〇〇五・七・二九)

 統一教会では、霊、魂(心)、肉の三段階になっていると言います。旧約時代、新約時代、成約時代で三時代圏になっています。(文鮮明先生のみ言 二〇一〇・四・一六)

 心と霊界は、どのように違うのですか。「自分の心も霊だろう」、このように考えているというのです。それを混同しているのです。心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心です。「骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心である」と考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心というものです。
 霊人体を見ると、霊人体も体があり、心があります。霊人体の心のようなものが霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。霊と心は違うことを知らなければなりません。心は神様と関係ないのです。神様が離れたのです。神様自体が関係することはできません。神様が直接主管することはできないのです。
 それで、皆さんの心は「こうだ、ああだ」と変わるのではないですか。(中略)しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているためです。心は人間内に属しています。行ったり来たりする人間内に属しているのです。(『文鮮明先生御言選集』九一―一四二、一九七七・二・六)

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