『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説4
神はなぜ人間の堕落に干渉されなかったのか
神は本来、人間が個性実体として完成すれば、永遠の理想存在として保存されるように造られたが、それまでの期間は人間にとって成熟期間である。その期間に理想の表準(基準)を完成してこそ、永遠存在の基(もとい)が確保される。その完成実体に神の愛を授けることが人間を創造した目的である。
そして、長成を通して完成に到達するまでの期間は神が直接主管されず、ひとえに創造原理を通して完成、成熟段階まで到達するように造られたのである。そのため、人間が完成するまでの期間、神は原理の主管格としていらっしゃり、その結果を見ながら喜ばれ、一刻も早い理想の成就がこの上ない要求であった。
さらには、神の人間に対する理想、すなわち神の理想は自由理想であり、それを表準(基準)として人間を造られ、その理想を少しも損なうことがないように造られたのである。したがって、その自由理想を求めて成就できる中心軌道は、善を中心に神のみ旨を成就できる第一存在である生心にあり、それが人間に与えられた根本の基となった。
それゆえ、人間が完成期に到達するときまで、神があれこれと自由理想の成長に干渉しなくとも、良心と生心はみ旨と一致させるため、その中心の善なるみ旨に直向(ちょっこう:真っ直ぐに向かうこと)し、指向するように造られている。ゆえに神は干渉し主管しなかったのである。神が干渉し主管することは、第一存在が自ら創造完成を無視することになると同時に、原理に反することになるため、人間自身が原理を完成しみ旨を成就することが根本となったのである。
さらに、神がそれ自体を直接主管して愛されなかったのは、個性を完成していない原理未完成のものを愛して一体的理想を成就したとしても、それは不完全な未完成体にしかならないからである。したがって、根本原理の表準(基準)まで完成することを待たれたというのが中心意義であった。
もし未完成のときに愛を受ければ、愛を受けたそれ自体が愛ばかりを要求し、根本の個性原理完成を全うすることができない。また、それは原理自体に反することでもあり、そのような存在を愛すること自体が、すなわち理想の愛を成就できないということは事実である。それゆえ、人間を限りない愛の理想形体として完成させるためにそのようにされたのである。
人間が神の愛を受けられる完全な存在として成熟していれば、原理的に神の愛を受けることができる完全な美の存在と見なされると同時に、それ自体が思慕の対象となるため、神と直接、通じることのできる作用が始まるように造られていたのである。
神は愛でいらっしゃるため、人間のもっている愛が完成すれば、自然的原理によって愛の刺激を受け、愛することができるようになっていた。すなわち、天の愛が陽的であるとき、完全な陰的愛の対象性をもつ実体は、人間が思慕する愛の心であり、それが起動するときにその対象存在となるのであった。それゆえ、そのときまで神は原理主管格としていらっしゃったが、その期間に人間の堕落が始まったのである。
人間も自由軌道によって、天使長も自由理想軌道の世界で法理(ほうり:法則と原理)によって活動しながら生きる自由存在であった。その自由理想を中心とする自由成就世界を造成し、創造されたあらゆる自由理想を完成するためには、個性完成し自由理想の実体存在世界を造成しなければならない。
これが神の根本理想だったとすれば、愛の理想を完成することこそが目的となる。したがって、自由理想を基台とし、その上に愛の理想原理によって創造された実体が永遠に存在することにより、神の根本愛の理想を表現化(具現化)することが目的だったのである。
人間世界で今、自由を求める声が大きくなっている原因は、人間が堕落したことにある。それゆえ、自由理想を理解してそれを取り戻せば、理想の愛によって歴史は必然的軌道を歩むようになるであろう。それは原理を見ても理論的であり、もたらされた結果から見ても知ることができる。
このような自由と愛の理想が一つの基台として個性完成を必要としていること自体が、今日まで流れてきた人類歴史の始まりが、堕落からの復帰であることを教えてくれているのである。
「神はなぜ堕落させたのか」とあらゆる人たちが言う。しかし、人間が自由舞台の世界で、自由生活をしながら完成点に到達するときまでは原理主管であるため、それ自体の行動を直接に干渉せず、良心と生心を通して本路線を確保するようになっていたため、人間においても、神を直に呼びかけることのできない原理的距離をもっていたのである。
直に呼びかけることができるのは、愛を完成、成就してからであり、そのときに考えれば神が分かるようになり、神も応ずるようになっていた。そのときまでは、人間の行動自体に対して直接的に教えることはなく、その行動の結果だけを見て教えるようになっていたのである。
それゆえ、サタンの行動に動じたそのときには、人間が良心的にも生心的にも適切に行動し、神が直接刺激できる行動をする段階には未到達であった。そのため、行動の結果を見て堕落した事実を認識されるようになったのである。
このように造られたのは、愛を完全なものとするためであり、間接的な対立性をおかれたのは、極にいらっしゃる神と有形体の極の存在である人間が、電気の原理と同じように合体し、限りなく大きな愛を始めようとしたからであった。神の愛を「+(プラス)」とすれば人間の愛は「-(マイナス)」であり、直接相対できるものだが、未完成期にいる存在の堕落行動に対しては、「-(マイナス)」の立場で作用したものだとしても直接的に感応できないように造られたのである。
神が人間を造られたとき、ご自身としては極から極の圏内を通して愛そうとして造ったため、万物自体の愛までも人間を通して連結するようにしたことを我々は知らなければならない。この愛の未成就が堕落であり、善の存在とは異なる非原理存在が法理(ほうり:法則と原理)の舞台に出現するようになったため、善と悪の分岐点が成立してしまったのである。しかし、原理的に人間が中心ゆえに、この人間の繁殖、発展とともに歴史が始まったのである。
発展する世界の歴史軌道は、自然界の原理的動きの上にそのまま始まる。したがって、世界は悪に属し、主管の本意ではない非公式の主管軌道により、無目的世界に向かって走る様相で始まったがゆえに、そのような世界で生存しながらどうして安楽と平安があるだろうか。このようになったのは、サタンの工作によるものであることが今、分かるようになったのである。
我々は他の目的地に誘動され、その中心目的を知ることができなかったため、人生は無限の苦痛を伴っている。このようになることが創造の本意ではないがゆえに、神は根本どおりに再び取り戻し、創造本意の理想体として復帰しようと、歴史を通して行われてきたのが神の摂理路程である。
それゆえ、人間を中心として善神と悪神の対立が始まり、その結果が歴史発展史を支配するようになった。すなわち、サタンは怨讐の父母格として人間を主管しようとし、神は根本の子女を取り戻すことが目的である。このことを知った我々は、どうして父母の前に悔い改めずにいられるだろうか。これがキリスト教の悔い改めの根本意義である。
したがって、根本から悔い改めざるを得ない「私(我々)」という存在が今、悔い改めるべきことは、父母と分からずに父母を冷遇したことである。この事実を痛哭して悔い改めるとき、心中に神を迎えて苦痛から解放され、父母と結び合う情景となるのである。この時間の喜びを何と比べることができようか! 万事の根本は平安と原理によって始まるため、良心的解放の始まりもこの真の喜びから始まり、それが新しい福音の中心なのである。(注二十一)
世界は悪が先に始まったため、そのあとに続いて善の完成を果たすことを目的とするのが神のみ旨であり、また果たすべき義務ゆえに、これが必ず成就するときまで天は勝利しなければならない。
そして、世界は今、悪が主管する時期であるため、悪なる者が勝つ世界では善なる者たちが多く踏みにじられている。したがって、偽りのものが先に行き来するというのが今の世界に見られる現実社会の実状であり、そのあとに善が始まるのである。原理によって造られた全天宙は、このみ旨成就に努力しているが、それを現在のキリスト教徒たちが分かっていないことは嘆かわしいことである。
悪が始まったため、それも原理路程を経て結実しなければならない。それゆえ、悪の完成時期がすなわちキリスト教の末世時期であり再臨の時である。したがって、世界がなくなることは絶対になく、地上において地上天国を完成することが根本目的である。
来られる主も、完成主として人間の体をまとって来られる。それは原理を見ても分かることである。すなわち、肉身完成ができなかったため、根本を探し求めて合わせる時期が末世であり審判の時期である。そして、根本の人間であるアダムとエバを取り戻さなければならず、善を求めて基(もとい)として立てるべき時期が末世である。ゆえに、悪が自らの本来の路程に向かって歩み始める時がすなわち末世なのである。
以上のように、原理を調べてみるとき、神は、原理を通して万事が成就することを根本意義としておられる。したがって、サタンに対しても強制屈服を必要とするのではなく自然屈服を必要としたのであり、六〇〇〇年の歴史を経てこられたのは、あらゆる創造原理の世界を完全に取り戻すためである。そうしてこそ創造理想体が始まり得るため、サタンまで自由行動させたことをよく知らなければならない。
聖書の歴史を通してサタンと神について語られたことやサタンが讒訴すること(ヨブ記一章八~一二節)、イエスの試練(マタイ福音書四章一~一〇節)などを見ても、神はサタンに自由を許諾されたことが分かる。それは、自由理想の舞台を根本意義としていたからであることを知らなければならない。
また、パロの心を頑なにしたのも(出エジプト記一〇章二七節)、完全屈服と自由屈服が必要だったからであることを知らなければならない。さらに、イスラエルの民に対して、その結果的行動によって神が嘆かれた事実は、根本的に人間の自由行動の結果に対して神が主管されることを知らせてくれるものである。(民数記一四章一一節)
このように、今まで神が全宇宙理想と天宙理想を完成するために苦心されてきたことに対して、我々はどのように向き合うべきか、それは考える余地もないことである。
(『原理原本』p91~100より引用)
(注二十一)
神様を悲しませ、嘆息圏内で涙を流してエデンの園から追い出されたアダムとエバが神様に帰っていくには、そのままでは帰ることができません。それで「悔い改めなさい!」と言ったのです。悔い改めを主張するのです。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ福音書三章二節)と荒野で洗礼ヨハネも叫び、イエス様も洗礼ヨハネに続いて「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ福音書四章一七節)と言いました。
悔い改めは、必ず涙を流して痛哭しなければなりません。痛哭して解放された喜びを感じながら、神様の前に罪を犯し、天地を見ても、四方のどこを見ても、赦されない罪人の中の罪人であることを知って、神様の前に涙を流さなければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』 二七四―五三、一九九五・一〇・二九)
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