『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説8
ハムがノアの裸を恥じたことがなぜ罪になったのか?
ノアの八人家族は、審判を通して第二次(注二十五)として繁殖すると同時に、神がみ旨とする摂理完成において、その始まりから結果にまで責任を担う使命が分担されていた。すなわち、神のみ旨を信じて従うことがノアの子孫に任せられた重大課業だったということである。
ところで、全人類が審判されることにより、サタンは自分を崇拝し仕える全人類を失ったため、自らの意志を託すところがなくなった。しかしサタンは、人間と離れることのできない関係的因縁がある以上、神のみ旨外の部分にいる存在がいれば自分の所有にすることができる。それゆえ、サタンは再び神に自由屈服せず、ノアの八人家族に対して未練をもつ立場に立つようになったのである。そのため、自らの意志を所有できる存在はいないか、また自分がとることができ神が憎む行動はないか、これがサタンの求める重大な注目点であった。この厳粛で恐ろしい立場に立った者たちが、すなわちノアの八人家族だったのである。
この家族たちは、神とサタンの間で自分たちの根本責任をやり遂げる方向に進まなければならなかった。つまり神の側に行こうとすればサタンが追いかけ、サタンに従えば神が滅す、このような立場に立っていたのである。その時、このことを原理的に理解していれば分からないが、この原理を知り得ない八人家族は、ひたすら積極的に神と相対する立場を保持していくべき存在であった。そのような状況でいかなる結果をもたらすかということは、人間特有の自由行動の結果によって右左(うさ:左右)される問題であった。ゆえにノアの家族はすべての天が期待する希望の存在であり、またサタンにとっては奪うことを期待する希望の存在だったのである。
そのような立場にいる存在が正に神が見て義とされる存在である。このような人間の価値を知ってみると、これまで人間はどれほど神を敬い従うことができなかったのかという嘆息が自然と出てくるであろう。今の我々は、原理から見て緊迫した立場にいることを理解できる恵まれた時期を迎え、無限に幸福な立場にいる。しかしこの時代は、このような根本問題を人間たちは理解できず一つの不可解な問題だったため、自分たちの存在価値と神に相対することやサタンに相対することについては、その根本を理解することができなかった。そのため、歴史の結果を見て神とサタンの関係が対立する立場に立っていることを理解するだけだったのである。
その当時のノアは、天地の主人公格であり第二の人間始祖となる存在だったため、その行動いかんによって神とサタンの行動が決まる重点(じゅうてん:重要な地点)に立っていた。そしてノアの八人家族は、その中に罪の思いさえあってはならないという存在であり、神の義のみが始まるべき存在として、神が憎まれる姿や傷の見える行動が一つでもあってはならない立場だったのである。
折しもノアは、農夫となりブドウ栽培を行っていたが、ブドウ酒を飲んで酔い天幕の中で裸になって寝ていた。それを見たノアの息子ハムは、父が裸で寝ているのを恥ずかしく思い、そのことを兄弟たちに告げて行動で表示したため、セムとヤペテは衣をとり、父の裸を見ないように後ろ向きに歩み寄って父の裸体を覆った。(創世記九章二〇~二三節)聖書を見ても、なぜこのような行動が神の憎む行動なのか、その根本意義が今日まで未解決の問題であったが、根本原理から見るときにその事実が明白になる。
この行動が何を象徴する事実かといえば、神の前に極めて憎しみとなる行動であり、サタンの側となって裸を恥じたアダムとエバ(創世記三章七節)と同じようにすることで堕落性の継承を表示する行動であり、サタンにとっては、神の前に自分の立場を立てる根拠になり得る問題であった。すなわち神がご覧になるとき、それは堕落した恥ずかしい自分であることをいまだ忘れることができず、その恥ずかしい存在の根源となっていることを自ら暴露する行動だったのである。
また全人類を審判されたのも、その人間の堕落が始まりとなって到達した結果であることを考えれば、ハムの思いと行動は、神にとって痛恨とならざるを得ない事実であり、同時にサタンの性稟、すなわち犯罪直後の行動を継承していることの証拠となる事実である。そして、神のみ旨である根本目的に対して、未完成要素が潜在していることが分かるため、再びサタンの起着点(きちゃくてん:起点と着地点)を示す行動であった。
それゆえ、サタンが再び行動開始できる根拠をつかむと、その要求を防ぐことができずサタンの繁殖が始まるようになった。その行動を直接開始させた存在はサタン側の者となるため、ノアはハムに対して「カナンはのろわれよ」(創世記九章二五節)と言ったのである。(注二十六)
そのようにして再び神とサタンが対立するようになり、そのまま子孫を繁殖したため、その子孫たちもまた神が憎む行動に流れていき、ノア以前のように、神を遠ざけてサタンの意志を繁殖することに協助していくようになったのである。(『原理原本』p122~126より引用)
(注二十五)
ノアの家庭を中心とする復帰摂理において、「信仰基台」を復帰すべき中心人物はノアであった。ゆえに、神はアダムによって成し遂げようとして、成し遂げることのできなかったみ旨を、身代わりとして成就せしめるために、アダムから一六〇〇年を経て、十代目にノアを召命されたのであった。それゆえに、神は既にアダムに祝福された(創一・28)のと同じく、ノアに対しても、「生めよ、ふえよ」と祝福されたのである(創九・7)。このような意味において、ノアは第二の人間始祖となるのである。(『原理講論』P三〇三)
(注二十六)
カナンはハムの四番目の息子であり末の息子。
「カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」(創世記九章二二節)
「ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。」(創世記一〇章六節)