『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説9-アブラハムの召命と鳩を裂かないことが罪となった理由

この記事は約6分で読めます。

 

『原理原本』に見る文鮮明先生の聖書解説9
アブラハムの召命と鳩を裂かないことが罪となった理由

 

 神は、み旨の中に抱こうとしたノアの子孫が再びサタンに奪われたため、これを奪い返す役事を始めなければならなくなった。そこで神は、サタンが愛する相対者である偶像商テラの息子アブラハムを再びサタンの懐から奪い返し、ご自身のみ旨から奪われた子孫を再び取り戻すかたちをとられた。(ヨシュア二四章二~三節)すなわち、反対路線で取り戻すためにアブラハムを選んだのである。その理由は、サタンの懐から抜け出してくる代表者として、多くの人間たちの模範となる行動となるからであり、二度とサタンのところに戻らないようにするためである。

 そして、すでに出てきたアブラハムを引き返せない立場に立たせるため、神がみ旨とされる他の地域に導かれた。すなわちアブラハムに要求したことは、故郷の山川であるカルデヤのウルを出ることであり、そこには二度とサタンのところに戻ってはならないという根本目的があった。

 アブラハムは、天の命令に従ったため、天にとっては喜びの存在だが、サタンにとっては極めて悲しみの存在であった。サタンに対して悲しみの存在となったアブラハムは、一つの分岐路線を立てることのできる中心存在であった。そうして神のみ旨に立ったアブラハムの背後には、怨讐サタンが未練をもってついてくるようになったのである。

 

 アブラハムが神のみ旨に従うことにより、自らの故郷の山川と慣れ親しんだ郷土への情、父母に対する情理や親戚に対する情理などが、アブラハムにとっては大きな苦痛の対象であった。しかし、神のみ旨を立てる路程は、このあらゆることが問題になるところでは始められないことは事実である。このような情は、天の情を成就しようとするとき、それとは反対の直接行動へといくらでも跳躍させ得るものである。

 それにもかかわらず、このようなものを問題とせずにカルデヤのウルを出発したアブラハムの行動は、やはり人間として褒め称えるべき問題であると同時に、神のみ旨を成就する基(もとい)となり、サタンに対する報復的な行動でもあった。それゆえ神は、ご自身の基本のみ旨をアブラハムから本格的に出発しようとしたのである。一方で、アブラハムを奪われたサタンは、アブラハムに対する反復工作(はんぷくこうさく:反対に復帰するための工作)を始めると同時に、神のみ旨成就を破壊しようと考えたのである。

 そして、神がアブラハムに対して祝福しようとしたとき、その祝福は、アブラハム自体に対する祝福というよりも、み旨を中心に祝福することが神の根本本意であった。それゆえ、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記一二章二節)と祝福してくださったそのみ旨に従い、故郷の山川を出発するアブラハムには天の工作が始まるようになり、神の代身(だいしん)として、み旨成就における基本行動の始まりがここで完成したのである。

 アブラハムを奪い返した神は、ご自身が行おうとする全目的を中心として、祝福と約束に対する新しい決定的誓いを立てなければならなかった。神がアブラハムに対して決定的誓いを立てるようになったのは、神の憎む一族に捕まっていたロトを取り戻して勝利したあとに始まった。(創世記一四章一~一六節)このようにアブラハムをして神の憎む民族と対立させたのは、神ご自身がみ旨を立てることのできる確固たる基礎を立てるためである。そうして、もはや神の憎む国が怨讐の立場から神の側に立ったため、決定的誓いの成就を始めたのである。

 この誓いには、アブラハムの子孫から神のみ旨を立てる民族建設を始め、これを拡大させて国家建設へ、そして世界復帰するという根本意義がある。このようなみ旨がアブラハムに対する誓いの中にすべて含まれ、この誓いからすべてが始まったという根本の事実を知ることができる。それゆえ、夢うつつの中で神が「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」(創世記一五章一節)と語られたのである。

 そしてアブラハムは、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」(創世記一五章三節)と言ったが、それに対して神は、「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記一五章四~五節)と言われた。アブラハムがこの神のみ言を信じたため、神は彼を義とされ、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」(創世記一五章七節)と言われたのである。このように、神がアブラハムを導き出したのは「この地」を与えて継がせるためであった。

 これに対してアブラハムが「わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」(創世記一五章八節)と言うと、神は「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」(創世記一五章九節)と命じられた。アブラハムは、それらのものをすべて裂いて右と左に置き、鳩だけは裂かずに祭壇の上に置いて祭祀を捧げると、その祭物の上に荒い鳥が降りてきた。すると神はアブラハムに、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう」(創世記一五章一三節)と言われたのである。

 この祭物は何の祭物だったかというと、その子孫全体を表示するものであった。すなわちその祭物は、神のみ旨からなる民を取り戻し、全人類を取り戻さなければならない神の根本目的を表示する代身(だいしん)的祭物だったのである。そして、祭物の上に荒い鳥が降りたというのは何を意味するのかというと、すでにサタンがその祭物に侵入したことを証する事実である。つまり、アブラハム一人を中心として神のみ旨を立てようとするとき、サタンはそのみ旨を打ち破るためにアブラハム一人の行動の結果だけを見つめていたのである。

 アブラハムと神との間で約束され捧げられたこの祭物は、神の全目的に対する約束の祭物であることは間違いない。それゆえ、祭物に失敗することは再びサタンに侵入路程を譲歩する行動であり、アブラハムがみ旨にかなうかたちで祭物献祭できないことは、神の計画されたみ旨が成就しないことを表示する重大なことだったのである。

 それでは、この重大な祭物を捧げる者として、アブラハム自身にとって祭物をすべて裂くことができなかったことはどのような意味があるのだろうか。

 祭物を裂くことは、全人類にサタン側の人間と天の側の人間がいることの表示であった。それゆえ、神が所有する子孫とサタンが所有する人間とを分けて摂理することが神のみ旨であったため、鳩を裂かなかったことは、神の子孫になるという約束と誓いを成立させなければならない祭物において、それが完成しなかったことを意味する。したがって、その子孫にまでサタンが再び侵入できる基(もとい)をつくり始めたことになってしまった。それでサタンは、裂かないことによって自ら(サタン)の側であることを表示した祭物の鳩をとるために祭壇の上に降りたのである。このように、神がみ旨とされた全目的はサタンが再び占有するものとなり、祭物献祭は失敗に終わるようになった。

 また、この三大祭物は何の表示かというと、神が成そうとされる真理を中心とする目的は、蘇生から長成へ、長成から完成へと進むことを一つの祭物を通して表示したものであった。つまり、鳩を捧げるようにされたのは神のみ旨の蘇生を表示するものであり、羊を捧げるようにされたのは長成を表示するものであり、牛を捧げるようにされたのは完成を表示する重大な祭物だったのである。

 もしこの祭物がみ旨にかなうように献祭されていれば、イスラエル民族にエジプトでの四〇〇年の生活はなかったがゆえに、四〇〇年の苦役というものはこの献祭における重大な失敗を告げる事実である。この四〇〇年に対する意義はのちに論ずることにする。(『原理原本』p128~134より引用)

タイトルとURLをコピーしました