命の木と丹田―第3回 善悪を知る木=脳・知識偏重と人間の堕落

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創世記のエデンの園には二つの木がありました。一つは「命の木」、もう一つは「善悪を知る木」です。聖書は明確にこう語ります。

「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 」(創世記2章9節・口語訳 以下同)

この二つの木は単なる象徴的存在ではなく、人間の身体と精神の構造そのものを指し示していると考えることができます。「命の木」は丹田=腸を、「善悪を知る木」は脳を象徴しています。

 

丹田と脳は主体と対象の関係

本来、人間の生命において、主体であるべきなのは命の木=丹田です。丹田は生命の源であり、腸を中心に身体の免疫とバランスを支える場所です。ここが安定しているとき、人間は心身ともに調和を保ちます。

一方、善悪を知る木=脳は対象であるべき存在でした。脳は知識や判断を生み出しますが、それは命の中心に従属して働くときにこそ調和をもたらすのです。主体である丹田が命を養い、その導きに従って脳が知識を活用することが、本来の秩序だったのです。

※脳と心は密接な関係がありますが、まったくの別物です。脳が心なのでもなく、脳から心が生じるのでもありません。

 

取って食べたのは「善悪を知る木」の実

しかし、人類の歴史の始まりは、その秩序の逆転から始まります。聖書はこう記しています。

「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。」(創世記3章22節)

アダムとエバが実際に「取って食べた」のは、「命の木」ではなく「善悪を知る木」の実でした。その瞬間、人間は「善悪を知るもの」となり、知識の領域に偏った存在へと変わってしまったのです。

この出来事は堕落を意味します。すなわち、生命の主体である丹田(腸)から離れ、対象であるべき脳や知識を中心に据えてしまったのです。

 

知識偏重の人類史

この逆転は人類の歴史に深い影響を及ぼしました。知識や理性を過度に重視する文明の歩みは、科学技術や社会制度の発展をもたらしましたが、同時に心身の不調和をも生み出しました。

知識の蓄積が進む一方で生命の根源を忘れる。
頭で考えることは得意でも腹の声を聞くことができない。
知恵は増しても心の平安と生命力は失われていく。

現代人が抱えるストレスや免疫力の低下、精神の不安定さは、この「知識偏重」の結果に他なりません。

 

イエスの視点からの復帰

イエスは人々にこう語られました。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ福音書7章38節)

ここで示されているのは、「腹から」流れ出る命の水です。すなわち丹田こそが命の源泉であり、そこから全身へ、さらには他者へと命が流れ出ていくのです。

イエスが語った復帰の道は、人類が失った主体と対象の秩序を取り戻すことです。つまり、命の木=丹田を主体に据え、善悪を知る木=脳を対象として正しく従わせることです。

 

善悪を知ることの限界

知識や善悪の判断は人間にとって必要なものです。しかし、それが中心になると必ず限界や対立を生みます。知識は人を誇らせ、時に他者を裁く武器となり、また善悪の判断は争いを引き起こします。

一方、丹田=命の木を中心に置くとき、人は安定と調和を得ます。そこから生まれる知識は、人を生かし、共同体を支える方向へと働きます。

 

結び

本来、命の木=丹田(腸)が主体であり、善悪を知る木=脳は対象であるべきでした。しかし、アダムとエバが「善悪を知る木の実を取って食べた」ことによって、秩序は逆転し、人類は知識偏重の歴史を歩むことになりました。

その結果、生命の根源から離れた人間は不安と争いに満ちた存在となりました。しかし聖書は最後に命の木の復帰を語ります。

「都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(ヨハネの黙示録22章2節)

命の木に立ち返るとは、丹田を中心に据える生き方を回復することです。頭ではなく腹を主体とし、知識はそれに従う対象として用いるとき、人は本来の調和と命の力を取り戻すことができるのです。

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