これまでの記事では、命の木=丹田(主体)と善悪を知る木=脳(対象)の二極構造を中心に考察してきました。
しかし、人間という存在をより深く理解するためには、もう一つ重要な観点を加える必要があります。それは「三つの中心軸」という視点です。
人間には、脳・心臓・丹田という三つの中心があり、それぞれが知・意・情に対応しています。そして、これらを統合するのが自我です。
1. 人間の三つの中心
人間の体は、単なる器官の集合ではありません。霊的な象徴として三つの中心軸を持っています。
脳=知
脳は思考と判断の中枢です。善悪を知り、理性を働かせ、知識を積み重ねます。聖書で「善悪を知る木」として象徴されたのが脳の働きに相当します。
心臓=意
心臓は血を送り出し、生命を推進する器官です。行動と意志を生み出す中心でもあります。「心を定める」「勇気を持つ」という表現は、心臓が意志と結びついていることを示しています。
丹田=情
腹に位置する丹田は、感情と直感、そして生命の根源を支える場です。腸は免疫や精神の安定にも直結しており、「腹を据える」「腹で決める」という言葉に示されるように、人間の情の中心です。
2. イエスのみ言と三つの中心
イエスは次のように語られました。
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ福音書12章30節・口語訳・以下同)
ここに「心・精神・思い・力」という表現が重ねられていますが、これは人間の全存在を挙げて神を愛せという命令です。
その背景には、人間が多次元的な中心を持っているという理解があります。
脳(思い)、心臓(力・意志)、丹田(心・情)が一つに合わさって、初めて人間は全体として神に向かうことができるのです。
3. 自我の役割
では、この三つの中心はどのように統合されるのでしょうか。それをまとめるのが自我です。
自我は、脳・心臓・丹田の三つの力を調和させる司令塔のような役割を持っています。自我が健全に働くとき、知・情・意は調和し、統一された人格を形成します。
しかし自我が弱まると、いずれか一つが暴走して不調和を招きます。
知に偏れば、理屈ばかりで冷たい人間になります。
意に偏れば、頑固で融通の利かない人間になります。
情に偏れば、感情に流されやすくなります。
自我が三つの中心をバランスよくまとめるとき、人は調和のとれた存在となるのです。
4. 堕落と不調和
創世記の失楽園の物語は、この三つの中心の不調和を象徴的に描いています。
人間は命の木=丹田を主体とする秩序を失い、善悪を知る木=脳を中心に据えてしまいました。その結果、知が暴走し、情と意が従属させられる形になりました。
自我は調和を失い、生命の中心は喪失されました。これこそが「失楽園」の一側面です。現代人が知識や情報に偏り、ストレスや心身の病を抱える姿は、この不調和の延長にあります。
5. 復帰の道
しかし、イエスはこのように語られました。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ福音書7章38節)
ここで示されているのは、再び丹田=情を中心に据えることです。そして自我が正しく機能するとき、脳=知と心臓=意がバランスを取り戻し、三つの中心は調和します。
さらに黙示録は、復帰された命の木が人々を癒すと記しています(黙示録22章2節)。これは人間の三つの中心が神とつながり直し、調和を取り戻すビジョンを象徴しています。
6. 現代人への示唆と教訓
現代社会は「知」に大きく偏っています。情報社会、AI、データ主義は脳の働きを極大化させましたが、一方で「情」と「意」が軽視され、心身の不調を起こしたり、息苦しさを感じている人たちも少なくありません。
この時代に必要なのは三つの中心の調和です。人間には、脳・心臓・丹田という三つの中心軸があり、それぞれが知・意・情に対応し、これらを統合するのが自我です。
失楽園とは、この三つの中心の不調和であり、復帰とは三つの中心を調和させ、再び命の木=丹田を主体に据えることです。
聖書の物語は、単なる神話ではなく、人間の身体と霊性の奥深さを私たちにおしえてくれています。