エデンの園に置かれた人間には、命の木と善悪を知る木の二つが与えられていました。本来は命の木=丹田が主体となり、善悪を知る木=脳がそれに従う対象となるはずでした。
しかし、人はその秩序を逆転させ、生命の中心を見失いました。この出来事が「失楽園」として語られ、今なお人類の生に影を落としています。
1. 禁じられた木の実
創世記には次のように記録されています。
「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』。」(創世記2章16~17節・口語訳、以下同)
神は命の木を禁じたのではなく、善悪を知る木を禁じました。ところがアダムとエバはこの実を取って食べ、善悪を知る者となりました。
この行為は、生命の根源から離れ、知識に偏った存在となることを意味しています。
2. 生命の中心からの逸脱
命の木は丹田=腸を象徴します。ここは生命力を生み出し、免疫を司り、精神を安定させる場です。本来はこの生命の中心を主体に据え、脳はそれを助ける対象として働くべきでした。
しかし、人間は善悪を知る木=脳を中心に据えてしまいました。その結果、頭で考えることは得意になりましたが、腹で感じ、生命とつながる力を失いました。つまり、人は命の木から切り離され、生命の中心を喪失してしまったのです。
【補足:目が開け、腰を覆った象徴】
アダムとエバが禁じられた実を食べた直後の描写はこう記されています。
「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」(創世記3章7節)
ここには堕落の本質が象徴的に示されています。
まず「ふたりの目が開け」とは、善悪を知る木=脳の領域が開かれたことを意味します。それは知識や判断力が肥大化し、理性中心の存在へと偏っていったことを象徴しています。
人間は本来、命の木=丹田を主体とし、脳は対象であるべきでしたが、秩序が逆転した結果、「知の目」が開かれ、知識偏重の生き方へと転落してしまったのです。
さらに「腰に巻いた」とあるのは、開かれていた腰=丹田を覆い隠したことを示しています。丹田は命の木であり、生命の根源です。
本来はここに意識を据え、開かれた状態で生きるべきでした。しかし、堕落後の人間はその中心を隠し、生命の源泉から目を背けてしまいました。
つまりこの一節は、脳の過剰な覚醒(知識偏重)と丹田の喪失(生命中心の隠蔽)という二重の断絶を象徴しているのです。
3. 死の支配
アダムとエバが善悪を知る木を食べた後のこちについて、聖書にはこのように記録されています。
「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。」(創世記3章22~23節)
命の木から切り離された人間は「永遠の命」を失い、死の支配の下に置かれました。これは単なる肉体の死を意味するのではなく、生命の根源を見失った存在の在り方を示しています。
4. 知識偏重の人類史
その後の人類の歴史は、知識と理性の発展の歴史でもありました。科学や技術は進歩し、物質文明は栄えました。しかし、その一方で、人間は生命の中心からますます遠ざかりました。
知識は増えたが生命力は弱まった。
便利さは増えたが心の平安は失われた。
脳は肥大化したが腹の声は聞こえなくなった。
現代人が抱えるストレス、免疫力の低下、孤独感や不安感は、この「失楽園」の延長線上にあります。
命の木=丹田を主体とする秩序を忘れ、脳=善悪を知る木を中心に据えた結果です。
5. 現代へのメッセージ
失楽園とは過去の物語ではありません。現代社会に生きる私たちもまた、知識や情報に溺れ、頭でばかり考え、腹の感覚を失っています。これこそが生命の中心の喪失です。
しかし、呼吸を整え、丹田に意識を置き、腸を養うことで、私たちは再び命の木に近づくことができます。生命の主体を丹田に置き直し、脳を対象として正しく用いるとき、人間は本来の調和を取り戻すのです。