聖書から見た共産主義―第4回 神を拒む社会の終末

この記事は約4分で読めます。

 

共産主義は、無神論を出発点として思想を偶像化し、国家権力を「獣」として働かせ、さらに擬似宗教と悪魔崇拝へと変質しました。

しかし、聖書は、このような神を拒む社会が最終的にどのような結末を迎えるのかを明確に語っています。

そこには厳しい審判の預言と同時に、希望の回復の約束があります。

 

神を拒んだ者の行く末

箴言にはこう記されています。

 彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。(箴言1章29〜31節)

神を退けた者は、自らの行いの結果を刈り取ります。共産主義国家が理想を掲げながらも、結局は大量の死者と破壊をもたらした歴史は、この聖句の通りでした。

人間が神を無視して作り出すシステムは、必ず自己崩壊の道をたどるのです。

パウロもこのように語っています。

 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。 (ローマ人への手紙1章28節)

神を認めない社会は、自ら無価値な思いに支配され、真理から遠ざかります。

共産主義の歴史的崩壊(ソ連の解体など)は、人間の思いに基づく体制の脆さを示す一例です。

 

悪魔的支配の終末

聖書は、悪魔的支配が永遠に続くのではないと告げます。ヨハネの黙示録は、最終的な裁きを次のように描いています。

 彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。(ヨハネの黙示録20章10節)

ここで悪魔、獣、偽預言者という三つの勢力がすべて裁かれます。

これは神に敵対する思想(偽預言者)、権力(獣)、そしてその背後にあるサタンが、最終的に滅びることを意味しています。

共産主義という体制もまた、「獣」としての役割を果たしましたが、それは永遠に存続するものではなく、神の審判のもとに崩れ去る運命にあります。

 

歴史に見る「神なき社会」の崩壊

ソ連は「永遠の国家」を標榜しましたが、70年余りで崩壊しました。

中国もまた文化大革命で数千万の犠牲を出し、後に大きな修正を余儀なくされました。

歴史は、神を拒んだ社会が決して安定や繁栄を長続きさせられないことを証明しています。

繁栄しているように見えても、その基盤は砂の上に建てられた家のように脆弱なのです。イエスも言われました。

 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。(マタイ福音書7章27節)

神を土台としない社会は、やがて必ず倒れるのです。

 

裁きと同時に与えられる希望

しかし聖書は、ただ破滅を語るだけではありません。裁きと同時に「希望の回復」を告げます。

ヨハネの黙示録は、続いて次のように語っています。

 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネの黙示録21章1〜4節)

これは、神を拒んだ社会の崩壊の後に、神を受け入れる者に与えられる約束です。つまり「神なき社会の終わり」は「神と共にある社会の始まり」への前触れです。

 

現代に生きる私たちへの問い

今では共産主義というイデオロギーは衰退しましたが、無神論や人間中心主義の思想は、いまだに根強く存在しています。

「経済成長がすべて」「科学が万能」「人間の理性が世界を救う」といった考えは、共産主義が辿った偶像化の延長線上にあります。

私たちは歴史を反面教師としなければなりません。神を退けるとき、社会も個人も必ず崩壊に向かいます。しかし、神を認めるとき、そこには回復と希望が約束されています。

聖書は、神を拒む社会が必ず滅びに至ると警告します。それは単なる歴史の教訓ではなく、霊的な原則です。共産主義の歴史はその現実を示す証拠です。

どの道を選ぶかは私たち自身にかかっています。共産主義のような「神なき思想」に従うのか、それとも唯一の神を求め、信仰に立ち返るのか。選択は一人ひとりに委ねられています。

タイトルとURLをコピーしました