「仏に逢ったら、仏を殺せ」(臨済義玄:中国唐代の禅僧)――。
初めてこの禅の言葉に出会ったとき、私は心の中で即座に反発を覚えました。
「神を否定するなんて、とんでもない」
「キリスト者として、これは受け入れがたい思想だ」
そう思ったのです。
しかし、それでもこの言葉が私の心に残り続けたのはなぜだったのでしょうか。
1.“仏”とは何か? それは“イメージ”かもしれない
禅がいう「仏を殺せ」という言葉には、「理想の仏」「教えの象徴」といった、“心の中に作り上げたイメージ”を疑うように、という意味があります。
もしかすると私たちクリスチャンも、“神”を信じているつもりで、実は自分の中で作り上げたイメージにすがっていることがあるのではないでしょうか。
2.モーセが砕いた“神の像”の意味
出エジプト記には、イスラエルの民が金の子牛を作って拝んだことに対して、モーセが激しく怒り、それを砕いた場面が記されています(出エジプト記32章)。
彼らは「これが我々の神だ」と言いました。しかし、それは本当の神ではなかったのです。
それは彼らが「自分の目で見たい」「不安を取り除きたい」という思いから作った、いわば自己都合の神の像にすぎませんでした。
禅の「仏を殺せ」という言葉も、こうした“偶像”に気づき、それを断ち切れというメッセージではないかと私は思います。
3.“救い主”という名の依存を超えて
私たちは、主イエス・キリストによって救われました。
しかし、時には、「イエスの言葉」や「神の恵み」を、ただ自分の安心のためだけにすがってしまうことがあります。
それは祈りというよりも“依存”になっていないでしょうか?
イエスは「わたしについて来なさい」と言われました。つまり、立ち上がって、従う者になることが求められているのです。
「仏に逢ったら、仏を殺せ」という禅の言葉は、信仰の道においても「自分の内側にある偶像性」に気づけ、と語っているように思えてなりません。
結び:神はどこにいるのか
神は、イメージや教義の中だけにおられるのではありません。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネ4:23)
それは、本物の神との出会いを、言葉や形式に縛られずに求めていく姿勢のことだと私は受けとめています。
禅の教えは、決してキリスト教信仰と敵対するものではなく、むしろ私たちの信仰が“生きたもの”かどうかを問い直す、よき鏡となるのです。