聖書と禅シリーズ②「坐って何になるのか?」―何もしない時間にこそ、神の声が聞こえる

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「坐禅なんて、意味があるんでしょうか?」
「ただじっと座っているだけで、いったい何が変わるの?」

私たちは、つい“意味”や“成果”を求めてしまいます。

じっとしている時間は「無駄」に感じられ、手を動かしたり、何かを生産したりしていないと、不安になることさえあります。

しかし、禅ではこう言います。
「何もしない時間こそ、すべての始まりである」と。

坐ることに意味はあるのか?

禅の修行において、最も基本となるのが坐禅(ざぜん)です。

足を組み、背筋を伸ばし、ただ静かに「今」に身を置く――
それだけのように見えますが、そこには深い目的があります。

それは、「自分の思いを手放すこと」。

心に浮かぶあれこれ――
不安、欲望、計画、過去の後悔……
それらをいったん脇に置き、「いま、ここ」に立ち戻る。

まさに、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)の体現です。

聖書も語る「沈黙の力」

旧約聖書の預言者エリヤが、ホレブの山で神と出会ったときのことを思い出します。

火でもなく、大風でもなく、地震でもなく、「静かにささやく声」の中に、主はおられた――(列王記上19:11–12)

神の声は、にぎやかな場所ではなく、静寂の中に、そっと訪れるのです。

忙しさに追われているとき、私たちは大切な声を聞き逃してしまいます。

立ち止まることは、信仰の行為

行動こそが信仰の証しだと、私たちは思いがちです。でも本当の信仰とは、神に「ゆだねる」こと。

何かをしなければ、と焦るときこそ、いったんすべてを神に明け渡して、ただ静かに座る。

「私が動かなくても、神は生きて働いておられる」
――それを信じる行為なのです。

禅とキリスト教の“祈りの沈黙”

クリスチャンの祈りもまた、言葉を尽くすだけでなく、沈黙の中に深まるものがあります。

言葉を超えたところで、神が語ってくださることを、心の耳で聞こうとする。それは坐禅と似ているように感じます。

「聞き従う」ことが、信仰の第一歩なら、そのためには、まず“静かにする”ことが必要なのではないでしょうか。

結び:沈黙の中に、神がいる

禅の「ただ坐る」という姿勢は、私たちにこう問いかけてきます。

― あなたの信仰は、“何かをする”ことでしか表せないものなのか?

― あなたは“静かに神とともにいる時間”を、どれだけ大切にしているか?

沈黙の時間は、けっして無駄ではありません。それは、神との関係が深まるための“器”のようなもの。

言葉をやめて、ただ神の臨在に身をゆだねる。そこに、真の回復と導きがあります。

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