聖書と禅シリーズ⑤「言葉にした瞬間、それはもう真実ではない」― 教えすら捨てる勇気

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私たちは、信仰を語ろうとするとき、どうしても「言葉」に頼ります。

聖書の言葉、神学的な表現、自分なりの証し――いずれも大切な手段です。

禅はこう問いかけてきます。

「言葉にした瞬間、それはもう真実ではない」

この言葉は、一見すると信仰そのものを否定しているように感じられるかもしれません。

ですが、私はむしろこの禅の問いかけの中に、言葉を超えた神との関係の深まりを見るのです。

言葉は“しるし”にすぎない

「光」という言葉が、実際の“光”そのものではないように、
「神」という言葉も、神ご自身を完全には表しきれません。

言葉は大切な道具ですが、それはあくまでも“指し示すもの”であって、“本体”ではないのです。

イエスご自身も、しばしばたとえ話や問いかけを用いられました。

それは、「神の国はこういうものだ」と直接に説明することができなかったからです。人間の言葉では、到底言い尽くせないからです。

「不立文字(ふりゅうもんじ)」――禅とキリスト教の共鳴

禅には「不立文字」という有名な教えがあります。
これは、「真理は言葉によって立てることができない」という意味です。

では、何によって伝えるのか? それは、実際の体験や沈黙、そして生き方によって伝わるものだとされます。

聖書にも、この感覚に近い場面があります。

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」(ヨハネ1:14)

神の言葉(ロゴス)は、紙の上にとどまらず、イエスという“人格”となって現れました。つまり、神は言葉すら超えて、存在そのもので語ってくださったのです。

教えすら手放すとき、神に近づける

信仰が深まるにつれて、時に私たちは「何が正しくて、何が正しくないか」という知識にとらわれがちです。

もちろん、聖書の教えや正しい理解は大切です。しかし、それが愛や信頼よりも優先されるようになったとき、それはもはや“命”ではなく“枠”となってしまうのです。

イエスが律法学者たちに厳しく語られたのも、まさに「神の言葉」が“律法主義”に変わってしまっていたからでした。

信仰とは、教えにしがみつくことではなく、教えを生きること、教えを越えて神とつながることなのです。

結び:語れぬ神にひれ伏す

神は、私たちの言葉で完全に説明できるお方ではありません。それでも、私たちは神を語り、証し、祈ります。

けれど時に、「沈黙」の中でこそ、神の臨在が最も深く感じられることもあります。

禅の問いかけが私たちに教えてくれるのは、「言葉を超えたところに、真実はある」ということ。

信仰もまた、理屈や表現を越えて、神にゆだね、神に生かされる歩みなのだと思わされます。

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