遠くへ行けば、何かが変わる気がする。
知らない土地、新しい本、刺激的な出会い――
私たちはよく、「今ここではないどこか」に救いや答えを求めます。
しかし、禅の世界にはこうした言葉があります。
「門外に出ずして世界を見る」
それは、「特別な場所に行かずとも、真理は日常の中にある」という意味です。
そしてこれは、キリストにある信仰生活とも深く重なる言葉だと私は思います。
禅は「非日常」ではなく「超・日常」
禅の修行というと、山奥で座禅を組み、深い悟りを得る――そんなイメージがあるかもしれませんが、実際の修行はむしろその逆です。
●庭の落ち葉を掃くこと
●茶碗を洗う
●米をとぐこと
●床を拭くこと
日常の営みそのものを、どれだけ丁寧に、気づきをもって行えるか――そこに禅の真髄があります。
行為を「作業」としてこなすのではなく、「今、これをしている」という意識で命を込めて取り組むこと。
それはまるで、「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ 3:17)というみ言の実践そのものです。
イエスも“日常”のただ中におられた
イエスの公生涯を振り返ると、神殿の説教よりも、食卓や道端、舟の上など、ごく普通の場所での語りかけがほとんどです。
●水をくみに来たサマリヤの女に井戸端で語りかけた
●漁を終えたペテロに舟の上で呼びかけた
●食事の場で取って与え、共に食べ、祝福された
つまり、イエスは「非日常の宗教空間」よりも、「日常の生きる場所」を重視されたということです。
信仰とは教会の中だけにあるのではなく、台所にも、通勤電車にも、洗濯物の山にも宿るものなのです。
「やるべきこと」ではなく「目覚めてすること」
私たちは日常の多くを「義務」としてこなしてしまいます。
●食事を作らないと…
●ゴミを出さないと…
●洗濯物をたたまないと…
しかし、禅は、それらの一つひとつの中に、“今、この瞬間”に気づくチャンスがあると教えてくれます。
たとえば、ただ「ほうきで掃く」のではなく、「落ち葉が風に舞い、土に還ろうとする命を見つめるように掃く」――その意識の差が日常を“修行”に変えてくれるのです。
聖書にこのようなみ言があります。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」― コリントⅠ 10:31
つまり、日常のすべてが“礼拝”になり得るのです。
結び:その場にいながら深く生きる
「門外に出ずして世界を見る」とは、どこかへ“行く”ことで世界を知るのではなく、“今、ここにある日常”の中で世界と出会うということです。
それは、「神がきょう私に与えてくださった一日を深く味わうこと」に他なりません。
洗い物の湯気の中に、子どもが走る音の中に、パンを焼く香りの中に、神の恵みと命の温もりが息づいている――
そのことに気づくとき、私たちはもう、悟りや救いを“外”に探す必要はなくなるのかもしれません。