世界が暗く見えるとき。
人の言葉が刺のように感じるとき。
何もかもがうまくいかず、未来が見えなくなるとき。
そんなとき、私たちは「外側の現実」に振り回されているように思いがちです。でも、禅はこう語りかけます。
「心が動けば世界も動く」
つまり、世界の見え方は、私たちの“心の状態”によって変わるということ。
これは、単なるポジティブ思考ではなく、もっと深い、“心と現実”のつながりに関する真理です。
世界は“そのまま”でも、自分が変われば見え方が変わる
同じ青空を見て、「なんて清々しい日だ」と感じる人もいれば、「空っぽで寂しい」と感じる人もいます。
状況は変わらなくても、“それをどう受け取るか”は、心のありように左右されるのです。
それはまるで、レンズの色で世界が変わって見えるのと同じです。
禅は私たちに問います。
― その“レンズ”は、今、曇っていませんか?
― 世界が荒んで見えるとき、あなたの心はどうなっていますか?
イエスが語った「心の清さ」
イエスもまた、心の状態の重要性についてはっきりと語られました。
「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」― マタイ 5:8
この「神を見る」というのは、天国に行ったあとに神に会う、という意味だけではないと思います。
むしろ、今ここで、日々の生活の中に神のご臨在を感じ取ることができるかどうか。
それは、心の目が清く、開かれているかにかかっているのです。
自分の心を整えるという“信仰の実践”
「祈っても変わらない」と感じるとき、もしかすると祈りの対象ではなく、“祈っている自分の心”がどこかに離れているのかもしれません。
焦り、不安、怒り、競争心――それらが私たちの心を占めているとき、神の語りかけも、周囲のやさしさも、うまく届かなくなってしまうのです。
だからこそ、私たちは祈るのです。
「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」(詩篇 51:10)
祈りは世界を変える力でもありますが、まずは“自分の心”を整える働きなのです。
見るものすべてが恵みのしるしになるとき
ある日、何気なく見ていた夕焼けが、ふと涙が出るほど美しく感じられることがあります。
それは、心が神に開かれていたときだったのかもしれません。
誰かの笑顔が、神の愛に見えるとき
子どもの声が、いのちの讃美に聞こえるとき
風の音が、神の慰めに重なるとき
世界はいつも、変わらずそこにあります。
でも、“見る私の心”が変わることで、世界はまったく違って見えてくるのです。
結び:信仰とは心の中に神の世界を見ること
ここまで禅の言葉を通して信仰を見つめ直してきました。どれも異なるように見えて、最後にたどりつくのはひとつ――
神は、いつも“ここ”におられる。
ただ、私の心がそれを見ているかどうかです。
「心が動けば、世界も動く」
その心に神が宿るなら、たとえ世界が荒れたように見えるときでも、私たちはそこに、平安と希望のしるしを見ることができるのです。