私たちが日々接しているニュース、職場での人間関係、家族との会話――そのすべての中に、さまざまな「バイアス(偏り)」が潜んでいます。
正常性バイアス、確証バイアス、集団バイアス、権威バイアス……。
心理学では数えきれないほどの偏向が知られていますが、その根底には共通する一つの源流があります。それが「自己中心バイアス(egocentric bias)」です。
あらゆる認知バイアスの“母胎”としての自己中心性
「自己中心バイアス」は、自分を世界の中心に置いてしまう思考の傾向です。
「自分の見た世界こそ真実だ」と無意識に信じている状態――これが他のすべての認知バイアスの出発点となります。
たとえば、「確証バイアス(confirmation bias)」は、自分の信じたい情報だけを集める傾向を指します。
なぜそのように情報を選り好みするのかというと、自分の意見が否定されるのを避けたいからです。
つまり、自分の“正しさ”を守りたい自己中心的な心の働きが、その背後にあるのです。
同様に、「集団バイアス」や「内集団バイアス」も、自分が属するグループを中心に世界を見てしまう心理から生まれます。
「自分たちは正しい」「あの人たちは間違っている」――この分断の根にも、やはり“自己中心的視点”があります。
聖書に見る認知バイアスの根
聖書は、人間のあらゆる偏りの根を「心の中の高ぶり」として描きます。イエスはパリサイ人たちにこのように語りました。
この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マタイ福音書15章8節)
彼らは律法を熱心に守っていましたが、心の中心には「自分の義」がありました。
つまり「神の義」ではなく、「自分が正しい」という確信こそが彼らの信仰の中心だったのです。
この「自分の義」こそ、あらゆる認知バイアスの精神的な原型です。
自己中心バイアスは、単なる心理現象ではなく、神の前で「自分を神の位置に置く」行為です。
創世記3章でアダムとエバが、神の言葉よりも自分の判断を優先したとき、人類史のあらゆる認知バイアスの芽が出始めました。
その瞬間から、人は「神を基準とする存在」ではなく、「自分を基準とする存在」となったのです。
「確証バイアス」と「自己義認」
聖書には、自己中心的な確証バイアスの例がいくつも記されています。
たとえば、ルカによる福音書の18章に登場する「パリサイ人と取税人の祈り」は象徴的です。
神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 (ルカ福音書18章11節)
パリサイ人は、自分の善行を並べ立てながら、他人を下に見ました。
彼は“自分の正しさを証明する証拠”しか見ていなかったのです。
一方の取税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカ福音書18章13節)と祈りました。
彼の祈りは、自分が中心ではなく、神が中心でした。イエスは言われます。
神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(ルカ福音書18章14節)
心理学的に見れば、パリサイ人は典型的な自己中心バイアスの状態、取税人はそのバイアスから自由になった心の状態です。
「集団バイアス」と“私たち対あの人たち”
現代社会では、SNSや政治の世界で「私たち対あの人たち」という分断が深まっています。これはまさに集団的な自己中心バイアスの結果です。
自分の属する側を「正義」とし、相手を「悪」とみなす――この二元的構造が世界を覆っています。パウロは次のように警告します。
あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。 (コリント人への第一の手紙3章3節)
自己中心バイアスは、個人の中にとどまらず、集団意識を通して社会的な分裂を生み出します。
国家、宗教、民族、思想――それぞれが「自分たちの視点こそ真理」と信じるとき、対立が生まれます。
この構造を超えるには、神の普遍的な視点――「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ福音書5章44節)というイエスの言葉――に立ち返るしかありません。
結び―すべてのバイアスを癒す視点
心理学がどれほど詳細にバイアスを分類しても、根本的な癒しは「自己中心性」への気づきなしには起こりません。聖書はその気づきを「悔い改め」と呼びます。
悔い改めとは、単に悪い行いを反省することではなく、「中心の入れ替え」です。
自分を中心にしていた視点を、神を中心に戻すこと――それが全てのバイアスを癒す最初の一歩です。
心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ人への手紙12章2節)
この言葉は、心理的再構成の呼びかけでもあります。心の中心に神を置くとき、私たちは世界を正しく見始めることができるのです。
次回は、この「自己中心バイアス」が哲学的・霊的にどのように位置づけられるか――つまり、「なぜ人間は自己中心にしか思考できないのか」という根本命題を、聖書と哲学の両面から探っていきます。

