共産主義は無神論から出発し、やがて思想を偶像化し、国家権力と結びついて「全体主義」という形をとりました。
個人の自由や信仰を否定し、党と国家が絶対となる体制です。
聖書はそのような体制を「獣」として描き、その背後に「龍(サタン)」がいることを示しています。
これは単なる古代の寓話ではなく、歴史の現実を鋭く照らし出す預言です。
「獣」の姿として描かれる権力
ダニエル書には恐ろしい獣の幻が登場します。
彼はまた時と律法とを変えようと望む。(ダニエル書7章25節)
ここに描かれる獣は、神の秩序を否定し、自分の権威で律法や時代を塗り替えようとする権力の象徴です。
共産主義体制は、まさにその姿を体現しています。伝統的な価値観や宗教的習慣は「反動」として排除され、国家の都合に合わせて歴史や制度が書き換えられたのです。
ヨハネの黙示録の「獣」と「龍」
新約聖書のヨハネの黙示録には、さらに直接的な表現があります。
また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。(ヨハネの黙示録13章4節)
「龍」とはサタン、「獣」とは地上に現れる神に敵対する権力を意味します。サタンが背後で力を与え、人々はその権威に服従し、恐れによって支配されます。
共産主義体制下では、国家そのものが「獣」となり、人々は「党を讃える歌」を歌い、「指導者の肖像画」に頭を下げ、信仰や思想を統制されました。
それは政治というより、宗教的礼拝のかたちに近いものでした。
「全世界は悪しき者の配下にある」
ヨハネの第一の手紙にはこうあります。
また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。(ヨハネの第一の手紙5章19節)
聖書は、世界全体がサタンの影響下にある現実を認めています。その支配が歴史の中で特に強く現れたのが、全体主義的な体制です。エペソ人への手紙にも次のようにあります。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。(エペソ人への手紙6章12節)
つまり、共産主義体制との戦いは単なる政治的対立ではなく、背後にある「悪の霊」との霊的戦いなのです。
歴史が証明する「獣」の実態
歴史の事実を振り返れば、この預言の言葉が決して抽象的でないことが分かります。
ソ連では秘密警察(NKVD、KGB)が人々を監視し、信仰を持つ者は「国家の敵」として迫害されました。教会は閉鎖され、聖職者は収容所に送られました。
中国では文化大革命の時代、聖書は焼かれ、教会は破壊され、人々は「毛沢東語録」を聖典のように唱えさせられました。
北朝鮮ではキリスト教徒は徹底的に弾圧され、代わりに「金日成・金正日・金正恩」を讃える宗教的儀式が日常化しています。
これらは「獣」に支配された社会そのものです。人間が神の座を奪うとき、それは必ず悪魔的な支配に転じます。
恐怖と服従の構造
ヨハネの黙示録13章はさらに続けます。
そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。(ヨハネの黙示録13章6節)
共産主義体制が「宗教は迷信だ」「神は存在しない」と嘲笑したのは、まさに神を冒涜する行為でした。
その結果、信仰を守ろうとした人々は迫害され、殉教者も数えきれません。この構造は「恐怖」と「服従」によって成り立っています。
人々は監視や処罰を恐れ、次第に思想や言葉を自ら制御するようになります。こうして「獣を拝む」社会が完成するのです。
現代における「獣」の影
では、この「獣」の支配は過去の話でしょうか。そうではありません。現代社会にも「全体主義の影」は存在します。
SNSやメディアで特定の意見以外を許さない雰囲気が作られるとき
政治や経済の力が絶対化され、人々が思考停止して服従するとき
宗教的信仰が公的に軽んじられ、社会の基盤から切り離されるとき
それらは小さな「獣の支配」の現れです。聖書は、歴史だけでなく、私たちの日常の中でも、サタン的権力の働きを見抜く知恵を与えてくれます。
結びに
全体主義と「獣の支配」は、聖書の預言にとどまらず、共産主義体制の歴史において現実となりました。
神を否定し、人間の思想と権力を絶対化した結果、それはサタン的な獣の姿をとり、数えきれない命と自由を奪ったのです。私たちはこの歴史を忘れてはなりません。
同時に、今なお働いている「悪の霊」との戦いを自覚しなければなりません。信仰を守るとは、単に個人の心の問題ではなく、サタン的権力に対する霊的抵抗なのです。

