前回は、愛と絆を支えるオキシトシンとバソプレシン、そして男女の性差を形づくるテストステロンとエストロゲンについて考えました。
神は愛と性を通して人を結び合わせ、命をつなぐ仕組みを備えられました。では、その命を支える流れとは何でしょうか。聖書はそれを「血」と呼びます。
レビ記に見る「血=命」の理解
レビ記17章11節にはこうあります。
肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。(レビ記17章11節)
「血は命」という表現は、単なる比喩ではなく、人間の存在を支える根本的な仕組みを示しています。
血が流れなければ人は生きられず、血が失われれば死が訪れる。古代の人々は経験的にこの真理を悟っていました。
現代科学が明かす血の役割
現代医学はさらに、血の役割を詳細に解き明かしました。
酸素や栄養素を運ぶ
老廃物を排出する
免疫細胞を届ける
ホルモンを全身に運ぶ
この中で注目したいのは、ホルモンの運搬です。前回扱ったテストステロンやエストロゲン、あるいはオキシトシンやコルチゾールといった物質は、血流に乗って全身をめぐり、体と心を調整します。
つまり「血は命」というレビ記の言葉は、今日的に言えば、「血液が生命を統合するメッセージを運ぶ」という科学的真実をも示しているのです。
あがないの血と内的変化
聖書は血を「あがない」と結びつけます。犠牲の動物の血が祭壇に注がれるとき、人々は罪の赦しを体験しました。
これは宗教儀式の象徴にとどまらず、血そのものが浄めと命の更新を担うことを示唆しています。
人体においても、血は「不調を洗い流す力」を持っています。感染や毒素が体に入れば、血液が免疫細胞を運び、体を守ります。血は体を清め、生かす力を与えるのです。
こうして見ると、レビ記のあがないの血は、生命を守り浄める現実を象徴するものと理解できます。
新約における血の完成
新約聖書では、キリストの血があがないの完成とされます。
ヘブル人への手紙9章14節にはこうあります。
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(ヘブル人への手紙9章14節)
ここでは、血が清めをもたらすことが強調されています。肉体において血が体を守り清めるように、霊的にキリストの血は魂を清め、新しい生を与えるのです。
ホルモンと「血」という言葉
聖書の中で「血」という言葉は、私の体に流れる現実の血をも指しています。現代科学的に言えば、その現実の一部はホルモンによって裏づけられます。
心が喜ぶと癒やしが訪れる(箴言17:22) → セロトニンやドーパミンの作用
思い煩いが命を縮める(マタイ6:27) → コルチゾールの慢性的影響
これらはいずれも血液を介して全身に作用するホルモンの働きを思わせます。つまり、血は「命の流れ」であると同時に、「心と体を結ぶ情報の川」でもあるのです。
信仰生活と血の循環
祈りや賛美、礼拝の時間は心を穏やかにし、血液循環を整えます。
実際に、祈りや賛美が血圧や心拍を安定させ、オキシトシンやセロトニンの分泌を促す研究もあります。
信仰生活は、霊的な祝福と同時に、血の流れを整え、肉体の健康にもつながるのです。
結びに
血は単なる体液ではありません。酸素も栄養も、ホルモンという見えない命のメッセージも、すべて血が運んでいます。
聖書が「血は命」と宣言したとき、それは古代の直感であり、同時に現代科学が追いつきつつある永遠の真理でした。
そして何より、キリストの血は人の魂を清め、命を与えます。肉体を流れる血が体を生かすように、キリストの血は霊を生かすのです。
「血は命」――このみ言は、今も変わらず、人間存在の核心を示し続けています。