創世記の1章で、神は人間と動物に「種ある草と実」を食物として与えられました。そこには、命を奪うことのない、完全な調和の中で生きる世界が描かれています。
しかし、創世記3章で人間が堕落すると、その秩序は崩れ、やがて暴力と死が広がっていきます。神は洪水の後、ノアに対して肉食を許されましたが、それは理想からの後退であり、神の御心の譲歩として理解することができます。
本記事では、創造時の理想としての菜食、堕落による命の軽視、終末における平和な御国(イザヤ11章)とのつながりをたどりながら、菜食が神の創造の秩序に根ざした生き方であることを探ります。
序文―聖書に見る人間の堕落前の菜食と堕落後の肉食
現代において、健康や倫理、あるいは環境への配慮から菜食主義を選ぶ人が増えつつあります。
ですが、聖書を通してこの菜食というあり方を見直すとき、それが単なるライフスタイルにとどまらず、神の創造の秩序と深く結びついていることが分かります。
特に注目したいのは、創世記1章と3章に記された堕落前後の違い、そしてイザヤ書11章に描かれた将来の御国の姿です。
これらの聖句には、神が人間に望まれた本来の生き方、そして終末における回復のビジョンが、食のあり方を通して明確に示されています。
創造の秩序と菜食の原則
創世記1章29~30節には、神が人間と動物に与えられた食物として、「種のある草と実」が明記されています。
これはすなわち、神が創造された当初の世界においては、人間も動物も他の命を奪うことなく生きる存在であったことを示しています。
「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。」(創世記1章29節)
このように、創造の初めにおいて神が人間に与えられた食は、完全な菜食でした。そして、この創造のすべてを神は、「はなはだ良かった」と言われたのです(創世記1:31)。
ここに、神が望まれた調和と平和のある世界が見えてきます。
堕落による秩序の崩壊と命の喪失
しかし、創世記3章で人間が罪を犯し、神の戒めに背いたことによって、世界は大きく変化しました。
罪の結果、死と苦しみが人間の生活に入り込み、神は人間に「いばらとあざみ」の地を与えられます(3:18)。
さらに、神は人間に「皮の着物」を与えられました(3:21)。これは、初めて動物の命が犠牲にされた象徴的な場面と解釈されています。
この堕落以降、人間の歴史には、暴力と死、命を奪う文化が広がっていきます。そして、ついに「暴虐が地に満ちた」と描かれるようになります(創世記6:11)。その極みとして、神は洪水をもって地を一掃されることになります。
洪水後の譲歩としての肉食の容認
大洪水の後、神はノアとその子孫に対して、初めて肉を食物として与えることを許されます。
「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。」(創世記9章3節)
この言葉には、堕落した人間に対する神の譲歩がにじんでいます。神は肉を食べることを完全に禁じるのではなく、血を避けること(=命の尊重)を条件として肉食を許されました(創世記9:4)。
それは、命の神聖さを守るための最低限の規範であり、神の本来の御心とは異なる状態であると考えられます。
終末の御国における菜食の回復
やがて、預言者イザヤは、メシアの治める平和の御国の姿を預言しました。その中で、かつて捕食者であった獣たちが、再び非暴力的な生き方を取り戻す様子が描かれています。
「ししは牛のようにわらを食い」(イザヤ11章7節)
これは、命を奪わない食生活への回帰であり、創世記における理想の回復を示すものです。すべての命が調和し、互いに争わず、殺し合うことのない世界――それが神の御国の本質であるとイザヤは告げているのです。
結びに―菜食は神の秩序への応答
以上のように、創世記とイザヤ書を通して聖書を読み直すとき、菜食という生き方は、神の創造の秩序に立ち返る信仰的姿勢と理解することができます。
肉食は、人間の堕落と共に広がったものであり、神はそれを完全には喜ばれなかったと見ることもできるでしょう。
そして、やがて回復される御国においては、命を奪うことのない世界が再び実現するのです。
私たちが今日、菜食を選ぶことは、その未来の世界に向けた小さな応答の一つであり、神の御心を意識して生きる試みの一歩なのではないでしょうか。