天和堂-心身統一と家庭和合の修練 第3章(4)「心身統一」訓練

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 目次

第1章 「心身統一」とその必要性
 (1)「心身統一」訓練の前提となること
 (2)なぜ心と体の統一が必要なのか
 (3)沈黙に耳を傾けることでなぜ沈黙が破れるのか

第2章 「思いの列車」から統一主義へ向かう道
 (1)「思いの列車」から降りて「今」に生きる
 (2)心の麻酔薬依存からの解放
 (3)私と私自身-分離主義から統一主義へ
 (4)真の姿になる道-「心身統一」訓練

第3章 「心身統一」訓練
 (1)心身の分裂状態を知るゲーム
 (2)訓練を始める前に
   ①環境
   ②姿勢
    1)座る場所
    2)足
    3)手
    4)背中
    5)頭
    6)目
    7)口
    8)精誠の「誠」
   ③呼吸
   ④修練時間
 (3)「心身統一」訓練の準備と始めの祈祷
 (4)「心身統一」訓練(←本記事の内容)
   ①8つの予備段階訓練
   ②省察
   ③訓練
   ④献身
   ⑤結論:個人的段階

第4章 夫婦の和合
 (1)自分の変化が他者の変化を誘導
 (2)「思いの列車」に命名する
 (3)幸福に連結する「相手の立場で考える」訓練
 (4)まず共感して聞くこと
 (5)貞節
 (6)すぐに反応しないで聞き入ること
 (7)夫婦合同の傾聴訓練
   ①葛藤の分かち合い
   ②お互いの力になってあげる
   ③相手の立場で読む
   ④相手の感情を受け入れる
   ⑤葛藤を認める
   ⑥感謝の祈祷
   ⑦瞑想と沈黙

第5章 子女との和合
 (1)子女たちへの二つの徳目
 (2)一人一人に個人的関心をもつ
 (3)宝のような子女たち
 (4)子どもたちと一緒にいるときの霊的訓練

最後に-常に完全でいることはできない

※本記事は、『天和堂-心身統一と家庭和合の修練』(文亨進著)を改訳し、抜粋して再編集したものです。


第3章 「心身統一」訓練

 (4)「心身統一」訓練

  ①8つの予備段階訓練

1)私たちに無条件の愛を施してくださる神様と真の父母様に「億万歳(オンマンセ)」で敬意を表わす。(声を出してする必要はありません)

2)神様と真の父母様にすべての貴いものを奉献する。(奉献するのは、私たちが持つ物質的なもの、または非物質的なものです。私たちの才能や徳目、善良さ、物、財源、心と体、あるいは心情を奉献することができます)

3)『家庭盟誓(カジョンメンセ)』を暗誦することによって私たちが誓約したことを想起する。(簡単に「家‐庭‐盟‐誓」とだけ反復することもできます)

4)私たちが考え、語り、行動したことで、不適切なことや弱さ、または罪を自ら正直に告白して懺悔し、赦しを請い、二度と繰り返さないことを誓う。

5)自ら持つ長所とともに神様と真の父母様の美徳を賛美する時間を持つ。

6)真なる父母となり、真の父母の心情を持つことができずに苦労する人たちを助けてあげることができるよう、私たちに絶えず教えを下さることをお願いする。

7)神様と真の父母様の犠牲を決して忘れないことを祈る。

8)真の人になり、四大心情圏(世界のために生きる真の父母、配偶者、兄弟姉妹、息子と娘)を完成する人になることに、このすべての修練を捧げる。

  ②省察

 真のお父様は、「それ(鼻の穴)は神様が息をする穴です。何を? 愛の空気を吸うのです。霊界ではそうなっています。空気は何かといえば、愛です、愛。」(『二世の道(成和学生の道)』より)と語られています。神様は愛を通して(私たちを愛されることによって)命を下さるのです。呼吸は私たちを支えている命の力です。

 私たちは、呼吸を通して自然の世界と連結されます。つまり、呼吸をするとき、酸素と二酸化炭素を授受して植物世界と連結されるのです。息をしなければ、数分以内に死ぬしかありません。ですから、私たちという存在にとって呼吸は見えない糧です。そして、これは神様が下さっためずらしくて貴重な贈り物なのです。

 この世界に入ってくる誕生の瞬間に、最初にしたことがまさに息を吸うことであり、同様に、この世界を離れるとき、最後にすることが息を吐くことです。一度の呼吸の中に、私たちの全体的な存在の価値が入っています。このように貴重なのです。

 問題は、私たちの大部分が、この計り知れないほど貴重な神様の贈り物を、まったく感じることができていないところにあります。私たちは、過去を振り返って反芻し、これからの計画を立て、未来のことを空想することに熱中しすぎています。ただひたすらそのことに忙しくしているのです。私たちは、今ここにいようとしません。神様が与えてくださった非常に細かい小さなものには、まったく注意を向けていないのです。

 ここで核心となることは、現在に対してより忠実で、今まで当然だと思っていたが、実際にはとても深い意味があるものに、もう少し注意を向けなければならないということです。呼吸のように簡単なものに対して感謝の思いを持つとき、命と共に私たちに与えられた多くのほかの贈り物の価値を、より十分に理解するようになります。私たちの修練は、呼吸と命と存在を認識することから始まるのです。

  ③訓練

1)最も集中できる環境を探します。静かな所ならよいでしょう。

2)椅子や座布団に腰をまっすぐにして楽に座ります。健康上の理由なら横になっても差し支えないですが、ただ居眠りしないように注意します。楽な姿勢でひざに両手を置きます。緊張を完全に解きます。修練をしている間は体を動かさないようにします。(自分で調節できないものは除外します)

 誘惑に引っかからないようにします。窮屈さを和らげようとつばを飲みこみたいと思ったり、かゆい所をかきたいと思ったりする細かいことも認識します。一度訓練時間を決めたら、その時間は統一された状態で訓練し、しっかり姿勢を保ってください。小さな誘惑に揺さぶられないでください。時間がたつにつれて、この修練はより大きく厳しい誘惑を認識し、それに抵抗するのに役立つ霊的な筋肉を育ててくれるでしょう。

3)3、4回深く自然に呼吸します。腹部を膨らませて息を吸い込み、収縮させて息を吐きます。息を吐く間、体の中の古い空気を完全に吐き出します。(古い空気を吐くためには、お腹の筋肉と骨盤の筋肉をゆっくり収縮させなければなりません)

4)再び普通の呼吸に戻ります。息を吸いながら「私は今、息を吸っている」、息を吐きながら「私は今、息を吐いている」と繰り返し心に記録します。

5)そして、神経を集中し、その空気がどのように鼻の穴を通ってのどに流れるのか、どのように胸または肺が上がったり下がったりするのか、呼吸の感触と温度と重さを感じてみましょう。可能なかぎり敏感になりましょう!(私たちは、これまでまったく知ることができなかった、神様が私たちに経験するように許諾してくださったことを詳細に知ろうと努力しています)

 私たちに下さった神様の贈り物に対して、だんだんとより多く知るようになっています。(このようになれば、神様の愛に対する価値を自然に感じ、神様により深い感謝を捧げるようになるでしょう)

6)ある瞬間、集中が途切れるかもしれません。この修練の段階ではよくある現象です。(心と体の統一の力が弱いため)サタンは、私たちがだんだんと神様の愛に対して知ることを妨害するでしょう。心が徘徊して「思いの列車」に乗るかもしれません。このような場合、自分や心に対して憤るのではなく、失敗したという思いを捨てて私たちの認識を再び呼吸に導き、今この瞬間にも与えてくださっている神様の愛を感じるようにします。現在の状況に忠実にするのです。

7)もし心がさまよいつづければ、自分を審判するのではなく、心がどこにあるのかを知るために、心を空にする方法を使ってみましょう。

 例えば、心がある思いの中でさまよっているとすれば、「迷い」という荷札をつけて処分し、静かに精神的な声で「迷い、迷い、……」と言います。また、腹が立ってくれば、「だんだん腹が立つ。……腹が立つ。……」と言うのです。もし意識がひざや足に行けば、軽く「ひざ、足、ひざ……」と言ってみます。不安でいらいらしていれば、「いらいらする心‐不安な心、いらいらする心‐不安な心」と言うのです。

 私たちの意識がどこにあるのかを見抜けば、その妨害者は少しずつ弱くなり、結局は消えていくようになるでしょう。そうして、妨害しているものが自然と過ぎ去るようにして、再び呼吸に戻ります。ゆっくり丁寧に呼吸し、汚れた空気をすべて外に送り出します。10分、ないし20分、心を空にすることと神聖な呼吸に戻る祈りを続けます。

 ④献身

 修練を通して得られた心の平和と統一、美徳があれば、人のために生きることに使われることを願います。真の自我から真の愛の心情が光を放ち、神様の光と愛を霊界と肉界のあらゆる存在に伝えられることを願います。苦痛を受ける人々が永遠に真の幸福を取り戻すことができるように助ける真の人になることを誓います。この修練を神様と真の父母様、そしてすべての人類に捧げます。アーメン、アーメン、アーメン!

 基本的な修練では、心と体の統一を安定化させる訓練をします。私たちが知っているように、瞑想を始めれば、最初は心と体の統一が不安定です。体はここにあるのに、心はあっちにあります。一つになれません。混乱の悪魔が心と体の統一を崩すのです。

 この修練では、自分を審判しないことが重要です。しかし、それと同時に自分に正直でなければなりません。ここで混同してはいけないことは、自分に正直だということが、「感じる自分と自分のすべての欠点をそのまま受け入れて、より良くなろうとしない」、そのような類いの感傷主義ではないという事実です。

 正直さは、大きな勇気と、時には自分の不足さを断固として語ることができる能力を要求しますが、常に希望のための場所は残っています。私たちの人生の中で、神様の贈り物を胸に抱き、自己中心的なものを減らしていく希望が残っているのです。

 自分に向けた審判とは、「おまえは失敗した! 非難されて当然だ」というものですが、自分に対する正直さとは、「失敗することもある。それを正確に知って認める。しかし、それをこれから直していこう」というものです。審判の場では良くなる希望がない反面、正直さには、内的な謙遜と忍耐、失敗を通して学ぶことができる余裕があります。

 そして、根本的な段階では強力な原理を修練します。自分に対する支配力を取り戻し、神様との関係や自分自身の心の思いに注意を傾けながら、「思いの列車」を「そのまま送り出し」て「新しく始める」という原理を修練するのです。修練がうまくいかなかったり、心がさまよったりするときは、すぐに反応して自分を失敗者だと審判するのではなく、ただその状態を心の中で自覚します。

 例えば、私たちが腹を立てたとすれば、怒りが入ってきて私たち自身を占領するようになります。すなわち、怒りが主体になって私たちが対象になります。そうして、自分でも知らないうちに怒り(これもやはり嫉妬やねたみ、憎しみ、恨みなどと同じように苦しい状態と言えます)によって主管されるようになるのです。

 しかし、私たちがその怒りを心の中で認知して荷札をはれば、それを認識するだけでなく、実際的に怒りをなくすことができるようになります。私たち自身が主体になり、怒りが対象になるのです。このようになれば、私たちは、心に対する支配力と調節力を取り戻すようになるのです。そして、自分自身を調節できることによって、怒りがそのまま過ぎていくように選択することができ、再び呼吸に戻ることができます。そうして再び新しくなる修練をするのです。

 自らを調節できるこの簡単な修練が、どれほど重要かを考えてみてください。私たちがもう少し注意を傾け、害になる感情などをそのまま過ぎ去るようにして、新しく始めることを学ぶことができれば、私たちやほかの人たちの生活に大きく役立つでしょう。

 人生において困難なことを経験したのち、自分をあわれみ、憂鬱になり、自分と人に対して暴力的になり、怒りと挫折と興奮と憎しみに受動的に占領されるのではなく、その感情を積極的に認知することができ、それらを過ぎ去るようにして新鮮なスタートに切り替えることができれば、実際にどれほど役に立つでしょうか!

 ギャング組織の1人が、侮辱に耐えられずに拳銃を構えて人を狙ったとき、もし彼が侮辱という感情に定着せずに、自分の利己的な自我を防御しようとする傾向と不安定さから来る恐れを認知し、それをそのまま過ぎ去るようにして新しくスタートすることさえできれば、それは1人の命を生かす結果をもたらすでしょう。「心身統一」が決定的に重要なのはこのためです。

 これは、刺激と反応の間に空間を用意してあげるということです。ある種類の刺激は、私たちをとても激昂させ、私たちは腹を立てた結果、言語暴力や物理的な殴打、それ以外の攻撃を通して、その怒りを表出することもあります。しかし、「心身統一」の修練を十分にすれば、そのような刺激が来たとき、その刺激と闘ったり避けたりする反応の間に、呼吸ができる余裕をつくることができます。私たちは、心を空にするノウハウを利用し、暴力的で苦しい心理状態に対して主体の立場に立つことができるのです。

 そうすることによって、苦痛に支配されるのではなく、それと一定の距離を置くことができるようになり、自分の心に対する支配力を取り戻すようになります。私たちは再び呼吸に戻り、心の中心が日常的な生活に戻ることによって、簡単に新しいスタートができるようになります。平和になることを選択できるのです。

 多くの人たちが、この修練では、世界を助けたり、暴力を防いだりすることはできないと考えます。しかし、想像してみましょう。人々が腹を立てたり、人を傷つけようとしたりするとき、もしすべての人たちがその怒りを認識して客観化させ、怒りとの間に距離を置き、それを過ぎ去るようにして新しくスタートできれば、この世界は本当に変わるでしょう。これが私たち自身の「心身統一」を実現することによって訪れる強い力です。またこれは、真のお父様が「心身統一」を宣教活動の中心的主題とされる理由でもあるのです。

 これが最も根本的であり、瞑想的な祈祷訓練であり、決して見落としてはいけない点です。この訓練を行うだけでも、神様を心におき、神様を理解していくことに役立つでしょう。

 歩いているときには、ほかの数千種類の雑多な考えに心を奪われるのではなく、私たちが歩いているという事実自体を深く認識する必要があります。些細で簡単な日常でさえ、神様が施してくださる深い愛を発見することができるのです。皿洗いをする間にも、水を認知し、皿の質感を感じとり、私たちがどのように立ち、どのように息をしているのかなどに対して調べることができます。神様が私たちに、目覚めて認識しながら生きていくチャンスを与えてくださっていることが分かるということです。

 そして、この修練は、私たち自身がどれほど利己的で、自己中心的な状態によって操られ、サタンがどれほど巧妙に私たちを誘惑しているか、より正確に理解させてくれます。同時に、そのような状態を錬磨できる道具にもなります。ですから、この訓練は絶対に必要です。ここがまさに神様の家を建てることができる土台でもあります。

 したがって、しっかりした土台をつくることにすべての力を注がなければなりません。より立派な人になるのに近道はありません。このことを常に心に刻んで心情的にならなければなりません。霊的なアンテナを立てましょう! 神様が私たちを待っていらっしゃるのですから。

  ⑤結論:個人的段階

 「心身統一」訓練の出発点は、私たちの心と体が分裂していて集中力が欠如しており、悪魔の策略に簡単に倒れていく弱い存在であるという現実に対する理解から始まります。認識論的に不完全な存在であることを理解することが大切です。

 人間は有限であり、神様は無限です。ある人は、これを「肯定的ではない、悲観的だ」と批判するかもしれません。もちろん、私たちが「自分たちは欠点ばかり持っている」と言い、あるいはそのように信じたいと思っているのなら、それは間違った話になるでしょう。しかし、「心身統一」訓練は、これとは正反対の性格を持っています。不完全さを知ることに、私たちは希望を持つことができるのです。

 もし私たちが心に反芻したり、発展させたりするべきものが何もなかったとすれば、私たちは停滞して腐敗するでしょう。私には、この方がもっと悲観的に思えます。自分の弱点を知ることによって、精神的、肉体的により健康な個人になれる余地があるのです。

 ある修練では、個々人が持つ自我観念を高揚させ、利己的な自我をいたわり、気分の良い特効薬を製造し、病にかかっている自らを見ることができないように麻酔にかけます。しかし、ここから訪れる結果とは、臨時的で瞬間的な喜びだけです。私たちの問題は依然として残り続け、再びわき上がり、私たちを以前のサイクルに引っ張り込み、霊的な弱さを隠すために、もっと多くの儀礼的な言葉ばかりを語るようにするだけです。

 私たちがある問題について話をするとき、審判的ではなく同情的で、ちょうど医者がするようにできれば、その問題を扱う力を得るようになります。多くの間違った妄想の根源を識別することによって、私自身と私の影響下にある人たちが永遠の真の幸福を享受できない原因となっている持病の根を抜くことができます。

 この修練を通して率直さと勇気を得て、自分とほかの人に対して真実であろうと決心することを切に願います。真の神様の人として成長する道は、いつでも真実でなければなりません。より真実で、より愛し、より正直で、より現実的な自分になるように絶えず努力すれば、私たちの心と家庭とこの世界に天国を具現させることができます。

 神様は、いつもその場にいらっしゃり、私たちを治療し助けてくださいます。私たちは、ただ静かに自分を整えさえすればいいのです。神様との沈黙の交流から出てくる知恵を聞かなければなりません。私の場合、最も深奥な境地を経験したのは、早朝に訓読会が始まる前、真のお父様と黙って静かに座っている時に来ました。その沈黙の中で私は、子女たちがよく父母から聞くことを願う、そのある言葉(愛と称賛の言葉など)を期待する利己的な希望を静めることができました。

 また、その深い沈黙の瞬間に、私は、神様が最も近くにいらっしゃることを感じることができました。私は時々、このような静寂に感動して、お父様と共に涙を流すこともあり、時には、あまりにも謙遜な沈黙との深い共感によって、思わず頭を下げ、自分の不完全さを認めて受け入れたこともありました。

 その静寂の中で、私たちは、自分の心がどこにあるのかを発見します。称賛されることばかりを願い、高貴な存在になることを願う姿を見るのです。「このように一生懸命に祈っているので、私は立派な人間だ」、あるいは「友人たちがドラマを見ている時間に、私はこのような努力をしているのだから、どれほど驚くべきことか分るだろう?」などと言います。内的な弱さを隠すために、称賛されることばかりを渇望しているという事実は知ろうとしないのです。

 私たちは、自分の弱さを正確に見る訓練をしなければなりません。ダムに生じた亀裂を見ることができなければ、遅かれ早かれ押し寄せてくる波によって、私たちはこなごなになるでしょう。沈黙の瞬間の中で、耳を傾けて聞く時間の中で、私たちは、自らの不完全さと利己的な傾向を見ることができ、また聞くこと(謙遜な心が導くままに自分を任せること)を学ぶことができます。

 謙遜とは大きな力です。謙遜について、受動的、あるいはおばあさんがする温和な行動だと間違って理解してはいけません。謙遜は、神様の前に立った人間として、認識論的な私たちの不足さを根本的に理解するところから訪れます。これを祈祷生活の出発点に定めれば、神様が私たちに見せてくださるどのような教訓も、それが気分の良いものでも、過酷なものでも、関係なく受け入れることができます。私たちは、神様の無限であられる愛と知恵、そして恩恵の教えと祝福を完全に受け入れることができるのです。

 私たちは、必ず目覚め、注意を傾けて見抜かなければなりません。このようにすることが神様に深い慰労を捧げることであり、真実な心で真の父母様に侍ることです。私の願いは、私たち全員が私たちの能力だけでなく、弱さを知ることによって、自分により率直になり、神様、真の父母様といつも新しい関係をつくっていく個人的復活の過程を始めることです。人生の一瞬一瞬に神様の贈り物を感じ、新しい感謝で満たされることを願います。

 

(つづく)

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