“完全な安全”を求める時代の病
私たちは今、あらゆる場面で「安全」を求める社会に生きています。
食品には添加物がないことを望み、環境には一切の有害物質を排除しようとし、交通事故や災害、感染症までも「ゼロ」を掲げて対策を求めます。
こうした傾向は一見、善意に満ちた行動のように思えます。しかし、そこにはしばしば、「ゼロリスク幻想」という危うい信念が潜んでいます。
ゼロリスク幻想とは、「すべての危険や不確実性を完全に取り除くことができる」という思い込みのことです。
それは、人間の技術や制度、知識を信じすぎるあまり、「完全な安全」を自分の手で作り出せると考えてしまう心の姿です。
けれども、どんなに科学が発達しても、どんなに注意を重ねても、この地上に“絶対に安全な状態”というものは存在しません。
自然界も社会も、そして人間の心さえも、常に変化し、不確実性を抱えているからです。
「恐れ」から生まれる信仰のすり替え
では、なぜ私たちは「ゼロリスク」を求めてしまうのでしょうか。その根には、「恐れ」があります。
人は誰しも、病気や事故、災害、そして死を恐れます。その恐れを少しでも遠ざけようとして、あらゆるリスクを排除しようとするのです。
けれども、その姿勢が行き過ぎると、「恐れ」が信仰の中心に座ってしまうことになります。
イエスは、弟子たちが嵐の中で恐れおののいたとき、こう言われました。
「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ福音書8章26節)
恐れは、信仰を押しのけて心を支配します。恐れの支配するところでは、人は神に信頼することよりも、自分の力で安全を確保することを優先してしまいます。
ゼロリスク信仰とは、まさにこの「恐れを信じる信仰」です。
「完全な安全」を追う人間の傲慢
聖書の中に、「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ福音書12章16~21節)があります。
そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
この男が犯した誤りは、危機管理の欠如ではなく、安全を神ではなく自分の倉に求めたことです。
彼にとっての「安全」とは、財産の豊かさであり、すなわち“自分の支配下にある安全”でした。
私たちが科学や制度、マニュアルや法律で「ゼロリスク」を築こうとする姿勢も、根本的にはこの男と同じです。
「自分の手で完璧に守りたい」という欲求は、神の摂理を超えて自らを主とする思い上がりへとつながります。
「人事を尽くして天命を待つ」―信仰の原点
では、聖書が示す本来の姿勢とは何でしょうか。それは「人事を尽くして天命を待つ」、すなわち、最善を尽くしたうえで神にゆだねる信仰です。
旧約聖書の詩篇と箴言には、次のように記録されています。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」(詩篇37篇5~6節)
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16章9節)
これらの言葉は、人の努力を否定するものではありません。むしろ、人は努力を惜しんではならない。けれども、その結果を自分の支配下に置こうとしてはならない、という警告です。
「ゼロリスク信仰」は、結果まで自分の手で握りしめようとする思いですが、「神への信仰」は、努力の先を神に委ねる思いです。両者は似ているようでいて、根本から方向が異なります。
「あすのことを思いわずらうな」
イエスは山上の説教でこのように語られました。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ福音書6章33~34節)
この言葉は、未来を無視せよという意味ではありません。むしろ、不確実な未来に対して過剰に恐れ、支配しようとする心を手放しなさい、というみ言です。
神の国を第一に求めるとは、「恐れのない生き方を選ぶ」ということです。
“ゼロリスク”ではなく、神に対する“全幅の信頼”――そこに、真の平安が生まれます。
結びに―恐れの信仰から、ゆだねる信仰へ
私たちは、危険や苦難を避けたいと願うあまり、知らず知らずのうちに「ゼロリスク信仰」という偶像を拝んでしまうことがあります。
しかし聖書は、人間の完全さではなく、神の導きと守りにゆだねる生き方を勧めています。
それは無防備でも怠惰でもなく、「人としてできる最善を尽くしたうえで、結果を神に委ねる」という成熟した信仰の姿です。
恐れを基準に生きるか、信頼を基準に生きるか。この選択こそが、ゼロリスク信仰と聖書的信仰を分ける分岐点です。

