聖書とゼロリスク信仰―第2回 恐れの支配・ゼロリスク信仰の心理構造

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「安全のために」という言葉ほど、人々を納得させる力をもつ言葉はありません。

誰もが安全を望み、危険を避けたいと願う――それ自体は自然なことです。

しかし、問題はその「安全」への欲求が、恐れに支配された信仰のかたちとなってしまうときにあります。

恐れは、信仰の反対側にあります。恐れが強くなるほど、人は神よりも不安を信じるようになります。

そして、不安を信じる人々が増えると、社会全体が「ゼロリスク信仰」という見えない宗教に染まっていきます。

今回は、この“恐れの構造”を、聖書に照らして考えてみましょう。

 

「恐れ」という見えない偶像

恐れは形のない偶像です。古代の偶像は石や木で作られていましたが、現代の偶像は心の中にあります。

それは「不安」や「予測不能」に対する過剰な反応として現れます。

人は危険を感じると、本能的にそれを避けようとします。しかし、恐れが強くなりすぎると、人は「回避そのもの」を目的化してしまいます。

つまり、「恐れを感じない状態=絶対安全」を作ることが目標になってしまうのです。

これが心理学で言うゼロリスク・バイアス(zero-risk bias)です。

ゼロリスク・バイアスとは、「小さな危険を完全に除去できるなら、大きな危険が残っても構わない」と感じてしまう心理傾向です。

これは科学的にも非合理ですが、心の安定を求める人間にとっては非常に魅力的な幻想です。

そして、この幻想が宗教化したものが、ゼロリスク信仰なのです。

 

恐れの中心にある「支配願望」

恐れの根底には、しばしば「支配したい」という欲求があります。

未来の不確実さを恐れるあまり、「すべてを自分の手でコントロールしたい」と願う――それは、創世記のアダムとエバの罪の構造に通じます。

神が「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記2章17節)と命じられたとき、彼らが手を伸ばした理由は何だったでしょうか。それは「神のようになりたい」という欲望でした。

この瞬間、人間は「神を信じる信仰」から、「自分を信じる信仰」へとすり替わってしまったのです。ゼロリスク信仰も同じです。

「不確実な未来を神に委ねる」代わりに、「自分がすべての危険を制御できる世界」を夢見る――恐れを動機としたこの支配願望は、やがて人間を神の座に置いてしまいます。

その結果、神への信頼は薄れ、恐れへの信仰だけが強くなっていくのです。

 

「恐れて隠した僕」のたとえに見る心理

マタイによる福音書には「タラントのたとえ」(マタイ福音書25章14~30節)があります。

主人から一タラントを預かった僕は、恐れてそれを地に隠しました。彼は失うことを恐れ、何もしなかったのです。(マタイ福音書25章25節)

この僕の心を動かしていたのは、「失敗したらどうしよう」という恐れでした。恐れは、行動を止め、成長を妨げ、信仰を麻痺させます。

ゼロリスク信仰も同様です。「何か起きたら困るから」「万が一に備えて」――こうした言葉の裏には、信頼よりも恐れが支配しています。

しかし、信仰とは「リスクを取る勇気」でもあります。アブラハムが神の言葉に従って見知らぬ地に旅立ったとき、彼は一切の保証を持っていませんでした。

それでも歩み出したのは、「神が導いてくださる」という確信があったからです。恐れを超えたところに、信仰は芽生えるのです。

 

恐れを手放す方法―神への信頼

イエスは言われました。

「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。」(マタイ福音書6章25節)

この教えは「準備を怠れ」という意味ではありません。むしろ、思い煩いによって信仰を失うな、という警告です。

不安な時代にあって、私たちは情報を集め、対策を講じます。それ自体は良いことです。

しかし、もしその行動の動機が「恐れ」だけであるならば、それは信仰ではなく不信仰の証です。

恐れを手放す第一歩は、「結果を自分で支配しようとする心」を明け渡すことです。

ピリピ人への手紙にはこう書かれています。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ人への手紙4章6~7節)

ゼロリスク信仰は「恐れを消すための信仰」ですが、聖書の信仰は「恐れの中でも平安を得る信仰」です。

恐れをなくすことはできなくても、その恐れに支配されない――そこに、神を信じる者の自由があります。

 

結びに―恐れの支配から信頼の支配へ

私たちが安全を求める心は、決して悪ではありません。しかし、それが恐れに支配されるとき、私たちは「信仰の中心」をすり替えてしまいます。

恐れの中心には常に「自分」がいます。信頼の中心には「神」がいます。

人間の心は、恐れによって閉じ、信頼によって開きます。恐れは人を孤立させ、信頼は人を結びつけます。

だからこそ、イエスは弟子たちに言われました。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。(マタイ福音書8章26節)

ゼロリスク信仰の根底にある「恐れの支配」から抜け出し、神にゆだねる「信頼の支配」へと生き方を転換する――それが、恐れの多い時代に求められる真の信仰ではないでしょうか。

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