聖書とゼロリスク信仰―第5回 神と共なる世界にこそ真の平安はある

この記事は約4分で読めます。

 

私たちはみな平安を求めていますが、争いや不安、病気や災害のない世界――それが平安だと思いがちです。

しかし、もし本当の平安が「リスクのない状態」にあるのだとしたら、この地上に平安を得られる人は一人もいないでしょう。

なぜなら、私たちが生きるこの世界は、常に不確実で、変化に満ちているからです。

聖書が語る平安は、外側の環境が静まり返った状態ではなく、どんな嵐の中でも揺るがない心の安定を指しています。

それは、恐れのない世界ではなく、「神が共におられる世界」です。

ゼロリスクを追い求めることではなく、神の臨在の中に生きることこそが、真の平安の出発点です。

 

平安は「リスクの排除」ではなく「信頼の充満」

イエスは弟子たちにこう語られました。

 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(ヨハネ福音書14章27節)

ここでイエスは、「世が与える平安」と「キリストが与える平安」を区別しています。

世の平安とは条件つきの平安です。健康である、収入が安定している、災害が起きない――こうした状態が崩れると、平安も一瞬で失われてしまいます。

一方、キリストが与える平安は、条件に依らない平安です。外的な環境がどうであれ、「神が共におられる」という確信が心を支える。これが信仰による平安であり、恐れを超えた静けさです。

 

「あすのことを思い煩うな」――未来の支配を手放す

イエスは山上の説教でこう言われました。

 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。(マタイ福音書6章34節)

この言葉は、単なる楽天主義ではありません。イエスは「未来を恐れるな」と言っておられるのです。

人は未来の不確実性に不安を感じ、それをコントロールしようとします。そして、恐れを打ち消すために「完全な安全=ゼロリスク」を追い始めるのです。

しかし、それは永遠に届かない目標であり、心を疲弊させるだけです。

イエスが示された道は、未来を支配するのではなく、未来を神にゆだねる生き方です。その信頼の中にこそ、平安があります。

思いわずらいを手放すとは、無関心になることではなく、神の支配にゆだねることです。

 

詩篇に見る「嵐の中の平安」

詩篇には、このような言葉があります。

 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。(詩篇46篇1~2節)

ここで語られているのは、「嵐がない平安」ではなく、「嵐の中でも恐れない平安」です。

自然が揺らぎ、社会が混乱し、人生が思いどおりに進まなくても、神が避け所である限り、心は沈まない。平安とは、危険の欠如ではなく、神の臨在の確信なのです。

ゼロリスク社会が目指す「恐れのない世界」は、外側を整えることに終始します。

しかし、聖書が語る「平安の世界」は、心の中心に神を迎えることで生まれます。

 

恐れの支配から平安の支配へ

恐れは、人の思考を狭くし、他者を疑い、社会を硬直させます。ゼロリスク信仰が広がると、人々は互いを監視し、責任を恐れ、自由を失っていきます。

しかし、神への信頼が広がるとき、人はおおらかになり、寛容になり、行動に勇気が生まれます。

ピリピ人への手紙には、こう書かれています。

 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(ピリピ人への手紙4章6~7節)

神の平安は、理屈を超えています。恐れや不安が消えるから平安なのではなく、恐れの中でも信頼を保てるから平安なのです。

それは、「何が起こっても大丈夫」という自分への自信ではなく、「何が起こっても神が共におられる」という確信です。

 

「平安」は行動する人の中に宿る

平安は、静かに座して待つ人にだけ与えられるものではありません。信仰をもって歩み出す人にこそ、平安は宿ります。

リスクを恐れて止まるのではなく、神を信じて進むとき、心に穏やかな力が湧いてくる。それが、ゼロリスク信仰には決して得られない「平安の体験」です。

アブラハムが旅立ったときも、ペテロが水の上を歩いたときも、彼らの周囲は決して安全ではありませんでした。

それでも歩み出したのは、「神が共におられる」という確信が心を支えていたからです。

平安とは、安全の中で守られるものではなく、信頼の中で与えられるものです。

 

結びに―平安は「神と共にある」ことそのもの

ゼロリスク信仰は「恐れのない世界」を夢見ますが、聖書は、「恐れの中でも神と共にある世界」を示します。

両者の違いは、外側の環境に平安を求めるか、内なる信頼に平安を見いだすかです。

人事を尽くし、最善を尽くすことは必要です。しかし、最後の一線――未来・結果・命――を神にゆだねることができる人こそ、真の平安を生きる人です。

 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。(詩篇37篇5節)

この一節にこそ、ゼロリスク信仰から解放された人生の答えがあります。

私たちは、恐れのない人生を生きることはできませんが、恐れの中で神を信じて歩むことはできます。

そこにこそ、「神と共にある世界」――真の平安の実現があるのです。

タイトルとURLをコピーしました