1.量子的な「可能性の重なり」とは何か
量子力学が明らかにした最大の特徴の一つは、「現実は最初から一つの姿に決まっているわけではない」という点です。
私たちが日常で見ている世界は、物が一つの形に定まり、その形が変わるときも連続的に移り変わっていきます。
しかし、量子の世界では、ある粒子が複数の状態を同時に持ちえるという、直感に反する現象が起こります。この状態を「重ね合わせ」と呼びます。
この現象を直感的に理解するために、封筒に入ったカードを想像してみましょう。
普通であれば、封筒の中のカードは「表が赤」「裏が青」というようにどちらかが決まっています。
しかし、量子の世界では、封筒を開ける前は「赤の状態と青の状態が同時に重なっている」という表現が必要になります。
そして封筒を開けて観察した瞬間に、初めてどちらかの色が確定します。
もちろん、現実のカードにこのような性質はありませんが、電子や光子のような量子的対象は、このような「複数の状態が現実として重なり合っている」としか説明できない振る舞いを示すのです。
観測されるまでは、現実は確定せず、複数の可能性が潜在的に存在しています。この「可能性の広がり」を数学的に表現したものが波動関数です。
この波動関数は、現実が決まる前の「可能性そのもの」を扱う道具であり、量子力学はこの可能性を計算することで、世界の振る舞いを予測します。
つまり、量子論の眼から見ると、現実は固定された姿ではなく、観測という行為を通して「可能性が一つに選ばれる」プロセスによって立ち現れていることになります。
2.観測が現実を確定させるという概念
量子力学が示すもう一つの特徴は、「観測が現実の確定に関与している」という点です。
観測とは、粒子に触れることだけを意味するのではなく、粒子の状態を知ろうとする行為全般を含みます。
観測が行われるまでは、粒子は複数の可能性の中に存在していますが、観測が行われた瞬間にどれか一つの状態が現実として選ばれます。
この現象を理解するためには、窓の外に広がる風景を思い浮かべることができます。
窓を閉めてカーテンを引いているとき、外の景色は存在していても、私たちはその姿を認識できません。
カーテンを開けて光が差し込んだとき、私たちは初めて外の姿を知ります。
量子の世界では、この「知る」という行為そのものが、風景の在り方を決定する要因にもなり得るのです。
この奇妙でありながら根本的な現象は、世界がどのように存在しているのかを深く考えさせるものです。
私たちが見ている世界は、単なる静止した物体の集合ではなく、観測によって形づくられる動的な現実であるとも言えます。
量子力学は、この「観測と現実」の密接な関係を科学的に示した初めての理論でした。
興味深いことに、創世記の創造物語でも「神は見て、良しとされた」という表現が繰り返されます(創世記一章)。
これは単に見て、良かったという感想ではなく、その段階の創造が“完成した”ことを示す宣言として描かれています。
量子力学の観測効果と直接結びつけることはできませんが、潜在的なものが“見られること”によって、確定した現実として立ち上がるという構造は、両者に象徴的な共通性を見せています。
世界がどのように姿を現すのかという問いにおいて、科学と聖書が異なる角度から“確定の瞬間”を描いている点は、深い示唆を与える視点と言えます。
3.聖書が語る「言葉による創造」とは何か
ここで聖書の創造の記事に目を向けると、次のように記されています。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1章3節)
この表現において、創造の主体は「言葉」です。神は物質を手で形づくったわけではなく、「言われた」という行為によって世界を存在させました。
この「言葉」は単なる音声ではなく、神の意思が世界に作用し、物質的現実が生じる契機となるものです。
ヨハネによる福音書の冒頭でも、この「言葉」の力が強調されます。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ福音書1章1節)
ここで言われる「言(ロゴス)」は、世界の秩序を生み出す原理であり、神の創造的な働きそのものを指しています。
聖書は、世界が神の意思の表れとして、言葉によって形成されたと語るのです。
この聖書的世界観では、現実は単に物質の集合ではなく、神の言葉が反映された秩序ある構造として理解されています。
神の言葉は、世界の背後にある根拠であり、物質を超えて現実の土台を成すものとされています。
このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。(イザヤ55章11節)
神の言葉は必ず何らかの結果を生み出し、目的を達成するというこの宣言は、言葉が現実に作用する力をもつという聖書的理解を強く裏づけています。
4.波動関数の「可能性」と神の言葉の「創造性」
量子力学が語る波動関数は、「現実が確定する前の可能性の集合」です。
一方、聖書が語る神の言葉は、「現実を形づくる力」です。両者は異なる領域の概念ではありますが、並べて観察すると興味深い構造的類似性が生まれます。
量子力学は、世界が確定した姿ではなく、可能性として広がっている状態から始まると理解します。
観測が行われたとき、その可能性の中から一つが選ばれ、現実が形づくられるのです。つまり、現実は「潜在的なものが顕在化する過程」によって成り立っています。
一方、聖書は、世界が神の言葉によって形づくられたと語ります。神が語られるとき、潜在していた何かが顕在化し、秩序ある現実が立ち現れます。
「光あれ」という言葉は、光が存在する原因であり、世界を形成する始まりとなりました。
量子力学と聖書は、扱う対象も意図も異なります。しかし、世界が「潜在的なものから顕在的なものへと移り変わる構造」を持つという点は、両者に共通して見られる特徴です。
それぞれの視点から「現実がどのように生まれるのか」を考えるとき、この共通性は興味深い示唆を与えます。
5.言葉が現実に作用するという視点の重要性
量子論と聖書の双方に見られる特徴は、「現実は静的に存在しているのではなく、何かの働きによって成立する」という点です。
量子力学では観測が働き、聖書では言葉が働きます。これらは別の次元の概念ですが、「現実は単にそこにあるだけではない」という認識において一致します。
私たちが日常生活で使う言葉もまた、現実に作用する力を持っています。励ましの言葉は人の心を強め、否定的な言葉は心を弱めます。
言葉は単なる音声ではなく、人の行動や選択に影響を与える力を持っているのです。
聖書が言葉の重みを強調するのは、人間の世界においても言葉が現実に作用するからです。
量子論が示す世界観と、聖書が示す言葉の力を重ねて考えると、現実は固定されたものではなく、関わりや選択、意思の表れの中で形づくられていくという視点が浮かび上がります。
このような視点は、世界を見て理解する上で、とても深い洞察を提供してくれます。

