序―「統一原理」から見た善と悪
善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。したがって、我々が、しばしば悪であると考えてきた人間の性稟も、それが神のみ意を目的として現れるときには善になるという例を、いくらでも発見することができる。今、それに対する例を挙げてみることにしよう。
我々が、往々にして罪であると考えるところの欲望なるものは、元来、神より賦与された創造本性である。なぜなら、創造目的は喜びにあるのであり、喜びは欲望を満たすときに感ずるものだからである。したがって、もし人間に欲望がないとすれば、そこには同時に喜びもあり得ないということになるのである。そうして欲望がないとすれば、神の愛を受けようとする欲望も、生きようとする欲望も、善を行おうとする欲望も、発展しようとする欲望もないということであるから、神の創造目的も、復帰摂理も、達成することができず、人間社会の維持とその発展もあり得ないのである。
このように、本来の欲望は創造本性であるがゆえに、この性稟が神のみ意を目的として結果を結ぶならば、善となるのである。しかし、これと反対に、サタンの目的を中心としてその結果を結べば悪となるのである。(『原理講論』p118)
1.多神教に共通する基本構造―善と悪の“初期共存”
多神教の世界観を詳しく見ていくと、文化や地域が異なっていても、驚くほど共通した特徴が存在します。
その最も根本的なものが、善と悪が創世の段階から共存しているという構造です。
これは、単なる神話上の設定ではなく、善悪観、倫理観、歴史観の形成に深く関わっています。
たとえば、ギリシャ神話では、オリュンポスの神々が善を担う存在である一方、タイタンや巨人族、冥界の勢力が破壊や混乱を象徴する存在として登場します。
バビロニア神話では、創世において、混沌の海の女神ティアマトが存在し、彼女の破壊的な力が世界の根源に組み込まれています。
ヒンドゥーにおいても、デーヴァ(神々)とアスラ(反神的存在)が、宇宙創成から対立し続ける存在として描かれています。
これらに共通するのは、善の勢力と悪の勢力が“初めから世界の構造の一部として存在している”という点です。
つまり、悪は後から生じたものではなく、世界が成立した瞬間から組み込まれているのです。
しかし、聖書は、創造の出発点において善のみが存在していたと語っています。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。(創世記1章31節)
この聖句は、創造の本質が善であり、悪が本来の構造に含まれていなかったことを示しています。
多神教が「善と悪の初期共存」を前提とするのに対して、聖書は「本来は善のみ」であったことを強調しており、ここに両者の世界観の出発点の違いがはっきり現れています。
2.初期共存がもたらす前提―悪は根絶できない
この世界観に立つならば、悪を完全に排除するという発想は成り立ちません。
なぜなら、悪は世界の外部から侵入したものではなく、宇宙の秩序そのものに含まれていると考えられているからです。そのため、多神教では次のような理解が前提になります。
●悪は根絶されない
●悪は永遠に循環し続ける
●善と悪のバランスが維持されることが最重要となる
特にヒンドゥー思想に見られる「サンサラ(輪廻)」や「宇宙周期」の概念は、善と悪の対立が完全に終わることはなく、悪が根絶されないまま循環し続けるという世界観を端的に表しています。
世界は創造と破壊を繰り返し、その過程の中で善と悪が常に共存し、悪が消滅することはありません。
この前提が、多神教の倫理観や社会観に大きな影響を与えています。
3.価値観の中心がバランス調整になる理由
善と悪が初めから共存していると考える場合、最も重要な課題は、悪の克服ではなく、両者の均衡を保つことになります。
多神教において頻繁に語られる「調和」「バランス」「中庸」は、この構造から生まれた中心的価値です。その結果、多神教社会では次の傾向が見られます。
●破壊的な力も必要な要素として容認される
●悪を排除するのではなく、抑制・共存する発想になる
●問題が起きた場合、根本解決よりも調整が優先される
たとえば、古代ギリシャの都市国家における神々の信仰は、多くの場合、特定の神の怒りを鎮めることで秩序を維持しようとしました。
バビロニアでも、破壊の女神を鎮める儀式が重要視されました。
ヒンドゥーにおいても、破壊神シヴァの役割は宇宙を維持するための循環の一部とされ、否定されるものではありません。
このような価値観は、平和で安定した社会においては一定の効果を発揮しますが、世界観の構造上、避けることのできない限界を抱えています。
4.歴史観の傾向―調整と保全への傾斜
多神教に基づく社会では、歴史は問題の根本解決ではなく、調整と保全を中心に展開します。
そして、世界は循環するものと理解されているため、最終的な完成や解決を想定しません。このような歴史観には、次のような特徴があります。
●同じ問題が形を変えて繰り返される
●現状維持が優先される
●秩序復元が中心であり、改革への動機が弱い
これは宗教だけでなく政治思想にも影響を与えます。
たとえば、バビロニア王権は「宇宙秩序の回復」を王の使命とし、破壊された秩序を元に戻すことが統治理念でした。社会を根本的に変革するという発想は希薄だったのです。
5.乱世で機能不全に陥る理由
調和とバランスを最優先する多神教の世界観は、安定期においては社会を維持する力となります。
しかし、戦乱や大規模な社会崩壊といった危機に直面すると、重大な弱点が現れます。
なぜなら、悪を根絶する発想がなく、悪の拡大を容認しやすい傾向があり、問題解決よりも妥協と調整を優先する構造的特徴があるからです。
悪が明確な形で増大した場合でも、多神教的価値観では「バランスが崩れた」と理解され、再び均衡を取り戻すことが目的になります。
しかし、それでは破壊的勢力が抑えきれない場合があり、結果的に問題が深刻化してしまいます。
そのため、危機が長期化し、同じ混乱が繰り返される傾向があるのです。
これに対して、聖書は、歴史の終末において、悪と苦しみが最終的に取り除かれることを明確に語ります。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21章4節)
この聖句が示しているのは、苦しみや悪が永遠に続くのではなく、神の計画の完成において完全に終わりを迎えるという希望です。
多神教のように、同じ混乱が永遠に循環する歴史観とは異なり、聖書は終局的な解決と完成に向かう時間軸を提示しているのです。
6.まとめ
多神教における善と悪の原初構造は、
●悪が初めから存在する
●悪は根絶できない
●善と悪のバランスが最重要となる
●歴史は調整と保全を中心に展開する
●根本解決が困難
という特徴を持っています。
これらの前提は、多神教がもたらす寛容性や調和の価値とともに、重大な限界も内包しています。
一方で、聖書は、本来の創造が「良し」とされた完全な善であり、悪は後から生じた異常であると語り、さらに終末において悪と苦しみが終わりを迎える希望を提示します。
この対比が、次回以降の「聖書的世界観との違い」の考察へとつながっていきます。

