※本シリーズでいう「欧米型キリスト教」とは、近代以降の欧米社会において形成された神学的・制度的・文化的キリスト教を指します。
1.“神の国=来世の天国”という欧米神学の構図
欧米型キリスト教において、「神の国」という語は、しばしば“死後に行く天国”とほぼ同義に理解されてきました。
これは、アウグスティヌス以来の内面主義、個人救済の強調、そして霊界至上主義の傾向によるもので、神の国を非歴史的・内面的な領域として解釈する方向に導いてきました。
もちろん、死後の世界における希望を聖書が語っていることは事実です。
しかし、神の国をほとんど「来世の問題」としてしまう読み方は、イエス自身が語られた福音の中心と大きく異なります。イエスは言われました。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコ1章15節)
この宣言は、聞いている者たちの“今ここでの生活世界”に向けられたものです。
神の国とは、単に魂が死後に入る場所ではなく、歴史の中に到来しつつある神の支配のことでした。
欧米神学がこの意味を弱め、“神の国=天国”へとほぼ還元してしまったとき、救いは歴史から切り離され、現実社会の中で神が働かれるという視点が希薄になっていきました。
2.聖書が語る神の国=地上における秩序と共同体の回復
聖書の語る神の国は、現実の社会・共同体・歴史に深く関わる概念です。
旧約においては、神の王権が社会秩序を回復し、不正が正され、共同体が神の義の下に再編されることが神の支配のしるしでした。
主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、(イザヤ61章1節)
この預言は、イエスによって成就したと言われています(ルカ4章21節)。
ここで語られる救いは、単なる霊的安堵ではなく、貧しい者、囚われ人、病者が現実に新しい生を得ることを伴っています。
新約聖書でも、神の国は歴史の中で具現化される出来事として描かれます。
神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ(ルカ17章21節)
これは、神の国がすでに共同体の中に芽生えつつある現実を示す言葉です。
神の国は、死後に行く場所を指すものではありません。また、救いとは「天国へ行けるという保証」のことでもありません。
それは、神の支配がこの世界の中でどのように現れ、形づくられていくのかという問いそのものなのです。
3.欧米神学における契約と血統の欠落
聖書の世界観の中心にあるのは、契約(コヴナント)の概念です。
契約とは、神が人類と結ばれた歴史的・共同体的な約束であり、「アブラハム契約」を通して“血統”という形で継承されていきます。
わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。(創世記17章7節)
ここで強調されているのは、神の約束が個人の内面体験ではなく、家系・民族・歴史の中を流れる具体的な関係であることです。
聖書の救いは、個人の魂だけに閉じることなく、共同体や後代の子孫に広がるものでした。
しかし、欧米神学は、次第に個人主義、合理主義、内面的宗教理解の影響を受け、契約の共同体的性質が見えにくくなります。
契約を霊的な象徴に還元し、血統(子孫)という歴史的要素を弱める傾向が強まった結果、聖書本来の歴史に働く神”という視点が希薄化していきました。
4.「歴史の意味づけ」から外れた近代合理主義
近代ヨーロッパでは、歴史は神の意志によって導かれるものではなく、出来事と出来事が因果関係によって連なっているだけのものとして理解されるようになりました。
この思想の中では、神が歴史の中で働かれるという聖書的理解は受け入れにくくなっていきました。
結果として、近代神学の多くは、神の国、契約、預言、歴史的救済といった聖書の中心概念を、内面領域に押し込めてしまいます。
しかし聖書において、歴史は単なる時間の流れではありません。
神が人を導き、契約を実現し、共同体を形作り、救済史をすすめていく舞台です。パウロは語りました。
しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。(ガラテヤ4章4節)
ここで“時が満ちる”とは、単なる年代ではなく、歴史が神の目的に到達する瞬間を指します。
近代合理主義がこの視点を除外したとき、神の国と契約と歴史は、すべて非現実的、象徴的、精神的な話へと変換されてしまいました。
5.ズレの本質:欧米型キリスト教は歴史と共同体を弱め、聖書はそれを強調する
ここまで見てきたように、欧米型キリスト教と聖書のズレは、単なる解釈の違いではなく、もっと深い世界観の構造的差異です。
欧米神学は、死後の天国、個人の救い、内面の信仰、合理主義的解釈を強調しやすい文化的背景の中で発展してきました。
対して聖書の世界観は、歴史に働く神、共同体と契約、地上で起こる復帰、生活世界内における神の臨在を中心に置いています。
このズレが大きくなったとき、神の国は天上化し、契約は象徴化し、歴史は無意味化し、信仰は内面的個人主義へと矮小化されていきました。
6.結論:聖書の神の国は来世ではなく、今ここへの招きである
イエスの語る神の国は、死後に行く場所のことではなく、現実の世界が神の秩序へと復帰していく過程そのものです。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(マタイ6章10節)
この祈りは、地上に神の秩序が実現することを求める言葉です。
神の国とは、生活の中に神の義が満ちること、共同体が復帰されること、歴史が神の方向へ導かれること、これらの総体として現れるのです。
次回は、この“神の国・契約・歴史観”の視点を踏まえた上で、東アジア文化における聖書理解の可能性を検討し、欧米型キリスト教とは異なる“聖書回帰の道”を探っていきます。
【補足】携挙について
なお、一部のキリスト教理解では、終末において信仰者が天に引き上げられる「携挙」が強調されることがあります。
しかし、この理解は比較的近代に形成されたものであり、初代教会や中世教会において一般的であった理解ではありません。
テサロニケ人への第一の手紙4章17節で語られる「空中で主に会い」という表現も、初代教会においては、地上から逃れる出来事としてではなく、来臨される主を迎えに出て、共に地上へと迎え入れるという意味で理解されていました。
すなわち、それは歴史からの離脱ではなく、神の支配がこの世界に到来する出来事として受け取られていたのです。
本稿が扱ってきた「神の国」は、こうした理解に立ち、歴史や社会から切り離された逃避的な救済ではなく、神の支配がこの世界の中でどのように現れていくのかという問いに焦点を当てています。
そのため、本稿では携挙を中心的なテーマとはせず、神の国を「歴史と共同体の中で実現されていくもの」として捉えています。

