聖書から見た欧米型キリスト教―補⑤ 共産主義体制下で育まれた中国家庭教会の信仰

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※本シリーズでいう「欧米型キリスト教」とは、近代以降の欧米社会において形成された神学的・制度的・文化的キリスト教を指します。

1 はじめに―宗教は迫害下で発展するという逆説

中国におけるキリスト教の歩みは、現代宗教史の中でも、きわめて特異な位置を占めています。

共産主義体制のもとで宗教は国家によって厳しく管理され、時に排除の対象にもなってきました。

それにもかかわらず、中国ではキリスト教徒の数が着実に増え続けてきたと推定されています。

この事実は、宗教は抑圧されれば衰退するという一般的な理解に対して、根本的な問いを投げかけています。

なぜ宗教は抑圧の中で発展したのでしょうか。この問いに向き合うとき、私たちは「教会とは何か」「信仰とは何によって支えられるのか」という根本的な問題に立ち返ることになります。

 

2.制度なき信仰共同体―「家庭教会」の特徴と広がり

中国におけるキリスト教の多くは、国家公認の宗教組織ではなく、いわゆる「家庭教会」と呼ばれる形態を取っています。

「家庭教会」とは、教会堂や正式な制度を持たず、家庭や小規模な集まりを中心として形成される信仰共同体です。

そこでは、聖職者と信徒という明確な階層構造は必ずしも存在せず、信仰は生活の中で共有され、支え合いながら育まれます。

礼拝は家庭の一室で行われ、祈りや聖書の朗読は、日常生活と分かちがたく結びついています。

制度的には不安定でありながらも、この形態は極めて柔軟であり、状況の変化に適応する力を持っています。

国家による規制や弾圧が強まるほど、信仰はより深く人々の生活に根を下ろしていきました。

 

3.組織より関係、教義より生―生活の中で生きる信仰

「家庭教会」において、信仰は知識として教え込まれるものではありません。

むしろ、日常の生活の中で体験され、共有され、体得されていくものです。

信仰が「理解するもの」というよりも、「生きるもの」として存在しているのです。

そこでは、教義的な正確さよりも、互いを思いやり、支え合う関係性が重んじられます。

困難の中で祈り合い、物質的にも精神的にも助け合うことが、信仰の具体的な表現となります。

この姿は、使徒行伝の2章に描かれている初代教会の姿を想起させます。

 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。(使徒行伝2章44~47節)

 

4.迫害が信仰を純化―形式より実存が問われる状況

中国のキリスト者にとって、信仰を持つことは社会的な利益をもたらすものではありません。

場合によっては、監視や差別、職業的制限などの不利益を伴います。

それでも信仰が守られ続けてきたのは、それが単なる宗教的所属ではなく、生き方そのものとして受け取られていたからです。

この状況において、信仰は「選ばれるもの」になります。形式的に属することは意味を持たず、信じることそのものが覚悟を伴う選択となります。ここに信仰の純化を見ることができるのです。

「人間に従うよりは、神に従うべきである。」(使徒行伝5章29節)という言葉は、まさにこの状況を言い表しています。

信仰は制度に従属するものではなく、良心と真理に従う生き方として現れます。

 

5.聖書的信仰との共鳴―初代教会との構造的類似

「家庭教会」のあり方は、初代教会の姿と多くの共通点を持っています。

制度や建物よりも人のつながりが重視され、信仰は生活の中で育まれました。そこでは、信仰と生活が分断されることはありません。

初代教会においても、信仰は社会的に保証されたものではなく、しばしば迫害の中で保たれてきました。しかし、そのような状況こそが、信仰の本質を明確にしました。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ福音書12章24節)という言葉は、迫害の中で成長してきた中国の「家庭教会」の歩みを象徴的に表しています。

 

6.現代世界への問いかけ―「強さ」とは何か、「教会」とは何か

中国の「家庭教会」の存在は、現代世界に根本的な問いを投げかけています。

教会とは建物や制度なのか、それとも人と人との関係そのものなのか。

信仰の強さとは、社会的影響力の大きさなのか、それとも困難の中でも失われない生き方なのか。

「家庭教会」の歩みは、信仰の本質が制度や権威にではなく、日々の生活と関係の中に宿ることを示しています。

それは、現代社会が見失いがちな、生活の中で実際に体現されている信仰の姿を、静かに、しかし力強く示しています。

この視点は、中国という特殊な状況にとどまらず、現代世界全体に対する問いとして受け取ることができるでしょう。

信仰とは何か、教会とは何かという根源的な問いに対して、「家庭教会」の中にこそ、一つの答えがあると言えるでしょう。

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