1.今、世界で起こっていること
世界各地で「秩序」や「制度」、「国際法」という言葉が飛び交うなか、その背後で、多くの人々の命が失われています。現在、イランで起こっている出来事もその一つです。
民衆の抗議行動に対して武装組織が発砲し、丸腰の市民が数百人、あるいは数千人単位で犠牲になっていると伝えられています。
これに対して、「内政不干渉が原則」「国際法を尊重すべき」という声が上がります。
一方で、「いま目の前で殺されている人々を見捨てるのか」という訴えもあります。
この構図を見ていると、どうしても福音書に描かれているイエスとパリサイ人の対立を思い起こさずにはいられません。
2.安息日に人を癒やしたイエス
マルコによる福音書3章には、次の場面が記されています。
人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。(マルコ3・4)
イエスは安息日に、片手のなえた人を癒やそうとされました。パリサイ人たちは、「律法に違反するかどうか」を監視していました。
彼らの関心は、その人が救われるかどうかではなく、規則が守られるかどうかにありました。
イエスはここで、「何もしない」という態度が、実は見殺しにする側に立つ選択であることを鋭く示しておられます。
イエスは別のところでこのようにも言われています。
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2・27)
ここには聖書の倫理の根本原理があります。
律法も、制度も、秩序も、本来は人を生かすためにあるのです。それが人を縛り、切り捨て、殺す側に回るとき、それはすでに本来の目的を失っています。
3.「何もしない」という選択の正体
ルカによる福音書10章の「善きサマリア人のたとえ」では、強盗に襲われた人を、祭司とレビ人が見て見ぬふりをして通り過ぎます。
彼らは何も「悪事」を働いたわけではありません。ただ「何もしなかった」だけです。しかしイエスは、この態度を明確に否定的に描いています。
現代の国際社会においても、「介入しない」「中立を保つ」という選択は、一見慎重で賢明に見えます。
しかし実際には、それは虐殺を続けている側に行動の自由を与えるという選択でもあります。
4.ここまでの議論と予想される反論について
ここまで見てきたように、福音書の視点から見るなら、「制度や秩序を守ること」と「いま目の前で失われつつある命を守ること」とが正面から衝突する場面において、イエスの立場はきわめて明確です。
制度は人のためにあり、人が制度のためにあるのではありません。「何もしない」という態度が、実際には命を見殺しにする側に立つ選択であることも、福音書は繰り返し示しています。
しかし、このような考え方は、現代の国際政治や国際法の文脈において、そのまま無条件に受け入れられるものではないでしょう。
そこには、「主権の問題はどうするのか」「戦争が拡大する危険はないのか」「秩序そのものが崩壊してしまうのではないか」といった、さまざまな反論や異論が当然のように予想されます。
以下では、こうした代表的な反論を一つひとつ取り上げながら、それらが本当にこの問題の核心に答えているのかを、福音書の視点から検討してみたいと思います。
5.想定される反論
想定される反論①「主権侵害になるではないか」
まず、「それは他国の主権侵害ではないか」という反論が出てきます。
しかし、聖書の倫理において、主権や制度は絶対的なものではありません。それらは常に「人を生かす」という目的の下に置かれています。
国家権力が自国民を大量虐殺しているとき、その国家はすでに「秩序の守護者」ではなく、「命の破壊者」に変質しています。
そのとき、その主権を絶対視することは、偶像崇拝に近い態度と言わざるを得ません。
人間に従うよりは、神に従うべきである。(使徒行伝5・29)
想定される反論②「戦争が拡大する危険がある」
次に、「介入すれば戦争が拡大し、犠牲が増える」という反論があります。これは軽視できない重要な指摘です。
しかし、ここで問われているのは、「どちらの犠牲が見える犠牲で、どちらの犠牲が見えない犠牲か」という問題でもあります。
介入しないことで確実に続く虐殺と、介入によって生じうる犠牲とを、同列に扱うことはできません。
イエスは、「確実に目の前で起こっている命の破壊」から、目をそらすことを決して許されませんでした。
人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。(ヤコブ4・17)
想定される反論③「ダブルスタンダードではないか」
「ある国には介入し、別の国には介入しないのは偽善だ」という批判もあります。
しかし、だからといって「どこにも介入しない」という結論に落ち着くなら、それは偽善を正すことではなく、偽善を普遍化することにしかなりません。
不完全で一貫性がないからといって、目の前の殺戮を放置する理由にはならないのです。
想定される反論④「人道を口実にした侵略ではないか」
歴史的に「人道」を口実にした侵略があったことは事実です。この警戒は正当です。
しかし、だからといって「すべての人道的介入は偽装だ」と決めつけるなら、それは結局、「どれほど人が殺されても何もしない」という立場に行き着きます。
イエスは、「動機の純粋さ」を吟味するあまり、「目の前の苦しむ人を放置する」ことを決して正当化されませんでした。
想定される反論⑤「国際秩序が崩壊する」
「ルールを破ることを認めれば、世界は無秩序になる」という主張もあります。しかし、秩序とは本来、命を守るためのものです。
秩序が命を破壊する装置に変わったとき、それはすでに秩序ではなく、ただの暴力の管理システムです。
イエスが批判した律法主義も、まさにこの目的と手段が入れ替わってしまった状態でした。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。(マタイ23・23)
もちろん、武力介入は万能の解決策ではありません。そこには常に新たな悲劇の危険が伴います。
しかし、それでもなお、福音書の前に立たされるとき、私たちはこの問いから逃げることができません。
「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(マルコ3・4)
6.「国際法か、人命か」という問いそのものの異常さ
ここで、もう一段深い次元の問題に目を向ける必要があります。
そもそも国際法とは、国際紛争を抑止し、戦争を防ぎ、人命を守るために存在しているはずのものです。
それにもかかわらず、「国際法を守るべきか、それとも人命を守るべきか」という問いそのものが成立してしまっているとすれば、それ自体が、現行の国際法体系がすでに重大な欠陥を抱えていることを示しています。
本来なら、国際法を守ること = 人命を守ることでなければならないはずです。
それが、国際法を守ること = 人命を見殺しにすることという、倒錯した状況を生み出しているとすれば、問題はもはや「守るか破るか」という次元ではありません。
問題は、人命を守れない国際法そのものを、根本から組み替えなければならないのではないか、という文明論的な問いにまで及んでいるのです。
7.律法主義の文明的拡大としての国際法絶対主義
パリサイ人の問題は、「律法が悪かった」ことではありませんでした。
律法を絶対化し、目的と手段を逆転させた思考構造こそが問題だったのです。
いま私たちは、同じ構造を国際法という形で再生産しているのではないでしょうか。
律法のために人が犠牲になる
制度のために命が切り捨てられる
秩序の名の下に虐殺が放置される
これは、2000年前にイエスが告発した精神構造と本質的に同じものです。
8.結―いま問われているのは「介入するか否か」ではない
もはや、問われているのは単に、介入するか、しないかという次元の話ではありません。
本当に問われているのは、人命を守れない制度文明を、このまま使い続けるのか、それとも根本から作り替えるのかという、はるかに大きな問いです。
イエスの言葉は、ここでも決定的な基準を示しています。
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2・27)
国際法も、国家主権も、国際秩序も、すべては人の命のためにあります。
それが命を殺す側に回ったとき、それはもはや守るべき秩序ではなく、乗り越えられるべき偶像です。
この問題は、遠い国の政治の話ではありません。私たちは、「正しさ」や「制度」や「秩序」の名の下に、どれほど多くの命を見捨てることを正当化してきたでしょうか。
この問いは、2000年前の会堂の中だけでなく、今この時代を生きる私たち一人ひとりに、鋭く突きつけられています。

