聖書から見た先祖崇拝─結:なぜ「救われた親」から「罪ある子」が生まれるのか

この記事は約7分で読めます。

序:この問いはなぜ正面から問われてこなかったのか

キリスト教の世界では、「自分は救われた」「贖われた」という表現が日常的に用いられています。

しかし、そこで1つの根本的な問いがほとんど問われてきませんでした。

それは、「もし本当に救われたのなら、その人の子どもはなぜ依然として原罪をもって生まれる存在なのか」という問いです。

パウロは、「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ロマ書5章12節)と述べ、人類がアダムの堕落の系譜に属していることを語っています。

一方で、「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」(ロマ書5章18節)とも語り、キリストによる救済を宣べ伝えています。

しかし、現実のキリスト教の解釈では、「救われた」とされる人から生まれる子どもは、なお「アダムにある存在」として生まれ、再び贖罪を必要とする存在とされます。

これは、救いが本当に「堕落前の状態への復帰」であるならば、きわめて不可解な構造です。

本稿は、この問いを手がかりに、現代キリスト教の贖罪理解の構造的限界を明らかにし、聖書が本来語っている「救い」とは何かを、創造・歴史・系譜という視点から再検討する試みです。

 

1.現代キリスト教の救いは「法廷的無罪宣告モデル」に矮小化されている

パウロは、「律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」(ガラテヤ書2章16節)と述べ、「義とされる」という法廷的用語を用いて救済を説明しています。

また、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ロマ書5章1節)とも語っています。

しかし、この「義とされる」という表現は、本来「神との関係の回復」を指すものであったにもかかわらず、近代以降の神学では、次第に「法的地位の変更」、すなわち「有罪から無罪への宣告」という意味に狭められて理解されるようになりました。

現実には、救われたとされる人も依然として罪の傾向を持ち、世界もまた、「滅びのなわめ」(ロマ書8章21節)の下に存在し続けています。

つまり、現代的な救済理解において変わっているのは、「存在の構造」ではなく、「神の前での法的な扱い」なのです。

この意味で、現在のキリスト教で語られている救いは、人間そのものが根本から元に戻ることというよりも、神の前での扱いが「赦された者」に変更されることとして理解されていると言わざるを得ません。

たとえ話を用いるなら、次のように言えるでしょう。

ある家が、もともとは新築同然のきれいな状態だったのに、長年の放置によってすっかり荒れ果て、住めないほどひどい状態になってしまったとします。

本来あるべき回復とは、その家をもう一度、住める状態にまで修復することであるはずです。

ところが、現在のキリスト教の救いに対する理解は、多くの場合、この家を修復することではなく、所有者の名義だけを変更して、「これはもう新しい持ち主の家だ」と言っているようなものになっています。

家の中は相変わらず荒れたままであるにもかかわらず、扱いだけが変わったことにされているのです。

 

2.もし本当に堕落前に戻ったなら、子は罪なく生まれるはずである

聖書によれば、堕落以前の人間は神から見て「はなはだ良かった」(創世記1章31節)という存在でした。

もし救いが「この状態への復帰」であるならば、救われた存在はもはや「罪の支配」の下にはないはずです。

しかし現実には、救われたとされる人から生まれる子どもは、なお「罪の性質をもって生まれる存在」とされます。

これは何を意味するのでしょうか。それは、現在のキリスト教の救済に対する理解が、存在の系譜そのものを切り替える出来事にはなっていないことを意味しています。

救われたと言われていても、その人はなお「アダムにある人類」の系譜に属し続けているのです。

パウロは、「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」(コリント人への第一の手紙15章22節)と述べています。

ここで語られているのは、単なる心理状態の変化ではなく、「所属する存在の領域の転換」です。しかし現実の神学理解では、この転換が実質的に起こっていない形で救いが語られているのです。

 

3.救いが「個人の内面」に閉じ込められた歴史的背景

このような救済理解が形成された背景には、宗教改革以降の西洋神学の展開と、近代個人主義の影響があります。

信仰は「個人の内面的決断」と理解され、「心の中でイエスを信じるかどうか」が救いの決定条件であるかのように語られるようになりました(ローマ書10章9〜10節の一面的理解)。

しかし聖書は、救済を決してそのような内面主義に限定していません。

むしろ、「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18章36節)と言われつつも、その国は「御国がきますように」(マタイ6章10節)と祈られるべき現実の支配です。

ところが近代の神学は、救いを「死後に天国へ行けるかどうか」という問題にまで狭めてしまい、本来聖書が語っている、歴史や世界そのものが正され、回復されていくという視点を、ほとんど見なくなってしまいました。

 

4.聖書は本来「被造世界全体の復帰」を語っている

パウロは、「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ロマ書8章21~22節)と述べ、救済が世界全体に及ぶ出来事であることを明確に語っています。

ペテロも、「昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった」(使徒行伝3章21節)と語っています。

さらにヨハネの黙示録は、「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)という、存在秩序そのものの刷新を描いています。

つまり、聖書の救済は、個人の内面、人類の歴史、被造世界の構造すべてを含む、宇宙論的規模の復帰なのです。

 

5.「家系が変わらない救い」は本当に聖書的なのか

旧約聖書において、祝福と契約は一貫して「家系単位」で語られます。

神は「あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト記3章6節)としてご自身を啓示されました。

祝福もまた、「あなた及び後の代々の子孫」(創世記17章7節)という形で、世代を貫いて語られます。

逆に罪の影響も、「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし」(出エジプト記20章5節)という形で、歴史性をもって語られます。

それにもかかわらず、現代キリスト教の救済理解では、救いはほぼ完全に「個人単位」に閉じ込められ、家系も歴史も変わらないままです。これは、聖書全体の世界観と明らかにかみ合っていません。

 

6.「個人が天国に行ける救い」は聖書の言う救いの縮小版である

パウロは、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(コリント人への第二の手紙5章17節)と語ります。

ここで言われている「新しく造られた」とは、単なる心境の変化ではなく、「創造そのものの更新」を含めた表現です。

また、エペソ人への手紙1章10節では、「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」という壮大な救済計画を語っています。

これに比べると、現代的な「死後に天国に行ける保証としての救い」は、聖書の救済ビジョンのごく一部を切り取ったものにすぎません。

 

7.真の救済とは「存在の系譜そのものが切り替わること」である

パウロは人類を明確に2つの領域で捉えています。

 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。(コリント人への第一の手紙15章45節)

ここには、「アダムにある人類」と「キリストにある人類」という、2つの存在圏の対比があります。

本来の救いとは、「罪ある人が赦される」というだけでなく、「どの系譜に属する存在であるか」が変わること、すなわち存在の所属転換であるはずです。

 

結:なぜ「先祖」「家系」「歴史」が神学の中心問題になるのか

以上見てきたように、「先祖」「家系」「歴史」という問題は、文化論の周辺問題ではなく、救済論そのものの中心問題です。

もし救いが本当に「堕落からの復帰」であるなら、それは個人の内面だけに起こる出来事であるはずがなく、存在の系譜と歴史構造そのものに及ぶ出来事でなければなりません。

現代のキリスト教が見失ってきたのは、この創造秩序的・歴史的・系譜的次元の救済理解です。

この視点を復帰するとき、「先祖」「家系」「歴史」というテーマは、単なる文化的問題ではなく、聖書神学の根本的かつ中心的問題として、あらためてその意味を持ち始めるのです。

タイトルとURLをコピーしました