旧約聖書の中で、血が象徴的に用いられる最も劇的な場面のひとつが出エジプト記の「過越祭」です。
エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放される前夜、神は彼らに小羊をほふり、その血を家のかもいと門柱に塗るよう命じられました。
血のしるしを見たとき、滅びをもたらす災いはその家を過ぎ越す、と告げられたのです(出エジプト記12章)。
この出来事は単なる歴史的事件ではなく、血が命を守り、新しい共同体を生み出す根源的な象徴となりました。
そしてこの視点を、千島・森下学説の「赤血球=万能細胞」という理解と重ね合わせると、血が命を生み出す仕組みそのものを深く理解する手がかりとなります。
血のしるしは命のしるし
過越祭の夜、血が家の入り口を守るしるしとなり、血がなければその家には災いが臨み、血が塗られていれば命が守られました。
レビ記17章11節の「肉の命は血にある」という言葉がここでも響きます。
血は単なる体液ではなく、命そのものの象徴です。血を通して神と人との契約が結ばれ、共同体が存続するのです。
赤血球=万能細胞と共同体の誕生
千島・森下学説は、赤血球を万能細胞ととらえます。
赤血球は全身のあらゆる細胞に分化する母体であり、必要に応じて再び赤血球に戻る可逆性を持っています。つまり、血は「命を生み出し続ける源泉」です。
過越祭の血が新しいイスラエル共同体の誕生を守ったように、赤血球は新しい細胞を絶えず生み出し、体を保ち続けます。
血は単なる維持のためのものではなく、新しい命を生み出す力を持っているのです。
イエスの血による新しい契約
新約聖書では、この過越祭の出来事はイエスの十字架によって成就します。
最後の晩餐でイエスは杯をとり、弟子たちにこう言われました。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 (マタイ福音書26章28節)
小羊の血がイスラエルを救ったように、イエスの血は全人類を罪から救う契約の血となりました。ここでも血は命を新しく生み出す原理として働いています。
千島・森下学説的に言えば、赤血球=万能細胞が新しい細胞を生み出すように、イエスの血は新しい命の共同体を生み出す源泉となったのです。
血がつなぐ刷新の循環
出エジプトの過越祭 → イエスの十字架 → 信じる者に与えられる新しい命。この流れは「血による命の更新」の歴史的展開です。
そして、これは細胞レベルでも同じ構造を持っています。
古い細胞は血に戻り(可逆性)、
赤血球から新しい細胞が生まれ(分化性)、
腸から新たな血が造られる(造血性)。
血の循環は、肉体の更新と霊的刷新の両面で働いているのです。
結論―血は命を守り、新しい命を生み出す
過越祭の血のしるしは、命を守り、新しい民を誕生させました。
そしてイエスの血は、すべての人に新しい命を与える契約となりました。
千島・森下学説においても、赤血球は万能細胞として全身の命をつくり続けています。
血は命を守るだけではなく、新しい命を絶えず生み出す源泉です。だからこそ聖書は「血は命である」と繰り返し語るのです。
霊的にも肉体的にも、血は命を生み出す神秘的な働きを担っている――それが出エジプトの出来事とキリストの贖い、そして生命科学の視点から見えてくる共通の認識なのです。

