【本記事の趣旨】
人はちりから造られ、息を吹き込まれて生きる者になりました。その原初の構造は、今もなお私たちの体に息づいています。神のかたちに造られた存在としての意味を、体の構造と霊性を通して確認します。
命のかたち―土の器に息を吹き込む
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。― 創世記2章7節(口語訳)
他の万物はすべて「神のことば」によって造られたのに対し、人間だけは神ご自身の手で形づくられ、息を吹き込まれて生きる者とされた――この点に神と人との深い関係が象徴されています。
この「土の器に命の息を吹き込む」という出来事は、人の体と霊の本質を最も豊かに表現していると言えます。
人は「ちり」から造られた
聖書では、「土のちり」から人が造られたと記していますが、これは、決して人の命が卑しいということではなく、むしろ大地と共に生きる存在であることを強調しています。
人の体は地の元素(炭素・酸素・鉄・カルシウムなど)で構成されていますし、死ぬことを「土になる」や「土にかえる」と言いますが、これも人の体に刻まれた真理を示しています。
また、「アダマ(=土)」から「アダム(=人)」が生まれたというヘブライ語の響きにも、人と大地の結びつきが込められています
つまり、人のからだは“土の器”として造られた自然の一部なのです。
命の息=霊(ルーアッハ)が吹き込まれる
人は形づくられただけでは、まだ「生きて」いませんでした。
神は、その鼻に命の息(ルーアッハ)を吹き込まれたとあります。
この「息(霊)」こそが人を生かす源であり、単なる物質から“命ある者”へと変えるものです。
呼吸は霊の象徴(「ルーアッハ」は「風」「息」「霊」を意味する)
呼吸が止まると、いのちは終わる
呼吸は自分の意志と無意識の間にある唯一の架け橋
つまり、人は土と霊を兼ね備えた存在であり、物質と神性をつなぐ橋のような存在だということです。
パウロはコリント人への手紙の中でこのように述べました。
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」― コリント第一 6:19(口語訳)
私たちの体は土の器でありながら、神の霊が宿る聖なる場(神殿)でもあります。
つまり、私たちが体を整え、呼吸を整え、霊に耳を傾けて生きることは、創造主への礼拝であり、創世記に描かれた「命のかたち」を今に生きることでもあるのです。
まとめ
私たちは、土でできた器であり、神の霊が吹き込まれた命の灯です。
ですから、この体を大切にして、呼吸を意識しながら神と共に歩む、それこそが、「神にかたどって造られた者」としての本当の生き方です。
創世記に描かれた天地の構造は、実は人間の体と命に刻まれた“神のデザイン”そのものだったのです。