聖書と量子力学―第9回 ゼロポイントエネルギーと遍在性

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1.神はどこにおられるのかという問い

「神はどこにおられるのか」という問いは、古代から繰り返し問われてきました。

聖書は一貫して「神はどこにでもおられる」と語りますが、この表現は単なる比喩ではなく、神の本質に深く関わる主張です。

詩篇139篇7節には、「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか」と記され、神が空間に制限されない存在であることが示されています。

神が遍在するという考えは、物理的な存在のあり方とは異なる次元に属します。

人間は空間に拘束されていて、ある場所にいると同時に、別の場所に存在することはできません。しかし、聖書が示す神の臨在は、空間の制約を受けない全的な広がりを持っています。

一方、現代物理学は、宇宙の最も深い階層に「ゼロポイントエネルギー」と呼ばれるエネルギーが広がっていることを明らかにしています。

このエネルギーは、何も存在しないように見える“真空”すら、完全な空ではないことを示す概念です。

これを神学的に解釈することはできませんが、「空間のどこにでも存在する基底的な働き」という構造は、神の遍在性を理解する際に興味深い示唆を与えます。

 

2.ゼロポイントエネルギーとは何か―“空の空間”は無ではない

量子力学によれば、真空とは完全な無ではありません。たとえ物質が何も存在しない空間であっても、量子レベルでは微小な揺らぎが絶えず生じ、その揺らぎはエネルギーを持ちます。

この最も低い状態のエネルギーを「ゼロポイントエネルギー」と呼びます。

この現象を直感的に理解するために、風が止んだように見える湖面を想像することができます。

一見すると静止しているように見えても、実際には目に見えない小さな波が立ったり消えたりしており、完全に静止しているわけではありません。

真空におけるゼロポイントエネルギーも同様で、目に見えない揺らぎが常に存在しています。

ゼロポイントエネルギーは、宇宙のどこにでも存在する基本的性質であり、空間そのものが“活動する場”であることを示します。

この物理学的な概念は、世界を理解するうえで、見えるものの背後に、絶えず働く「深い層」があることを教えています。

 

3.神の臨在と空間の“深層”をめぐる聖書の視点

聖書が語る神の臨在は、「ある程度の範囲に広がっている」といった限定的表現ではなく、空間のすべてに及ぶ“全的広がり”として描かれています。

詩篇139篇8節は、「わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」とあります。

続く9~10節では「わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き」と語られ、エレミヤ書には次のようにあります。

 主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。(エレミヤ書23章24節)

神自らが、天と地のすべてを満たしておられると宣言しているこの聖句は、神の臨在が特定の場所に限定されず、世界そのものの存在を支える深層として働いていることを象徴的に示しています。

神の遍在性とは、空間の隅々に神が個別に点在しているという意味ではありません。

むしろ、「空間の成り立ちそのものが神に依存している」という理解に近いものです。

神が空間の“外側”にいるのではなく、空間の“基底”として臨在するという神学的な視点は、物質世界と霊的世界の区別を超えた深い次元の理解を必要とします。

ここで量子論が示したゼロポイントエネルギーを思い起こすと、真空という“何もない空間”ですら完全な無ではなく、そこに基底的なエネルギーが存在するという事実は、「空間の背後に常に働く何かがある」という直観に一定の示唆を与えます。

もちろん、ゼロポイントエネルギーを神の臨在と同一視することはできません。

しかし、「空間の根底に見えない活動が存在する」という構造は、神学的理解と対比する際の興味深い補助線となります。

 

4.ゼロポイントエネルギーが示す「遍在性の比喩的構造」

ゼロポイントエネルギーは、宇宙のあらゆる場所に存在し、空間が存在する限り、その活動が続いているとされます。

この特性を神の遍在性と直接比較することは適切ではありませんが、「どこにでも基盤的な働きがある」という点で象徴的な共通性が見られます。

ゼロポイントエネルギーの揺らぎは、目で見ることはできません。しかし、それが存在しなければ物質の安定性は保てず、宇宙の構造そのものが成り立たないと考えられています。

この見えない基底的活動は、「見えないものが見える世界を支えている」という聖書と共鳴するところがあるのです。

聖書は、見える世界の背後に霊的現実があると繰り返し語ります。

たとえば、「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(コリント人への第二の手紙4章18節)という聖句は、見える世界を支える基盤が見えない領域にあることを示唆しています。

結論として、神の遍在性を量子論で説明することはできませんが、量子力学が示す世界観は、遍在性を理解するための思索的枠組みに新しい可能性を提供します。

量子世界は、見えるものの背後に見えない構造が広がり、物理的空間は単なる空ではなく、基底的なエネルギーが満ちていることを教えます。

一方、聖書は、見える世界の背後に神の働きがあり、神の臨在が世界の存在そのものを支えていると語ります。

両者は別領域の真理ですが、「表面的には見えない基盤によって世界が支えられている」という構造が共通しています。

物理学の発展は、聖書的概念を科学的に証明するためのものではありませんが、聖書の霊的真理をより深く理解するための比喩的・哲学的ヒントを提供してくれます。

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