1.光とは何か―量子論が示す二つの顔
私たちは、日常生活の中で光を当然のように受け入れています。朝になれば太陽が照り、夜には灯りが部屋を明るくします。
しかし、この身近な光を深く探っていくと、意外なほど複雑で奥深い性質が表れてきます。
量子力学が明らかにしたのは、「光は波のように広がる一方で、粒子のようにふるまう」という、常識では理解しにくい二重の性質です。
光は時に波のように広がり、干渉したり重ね合わさったりします。
一方で、光は、「光子」という粒子として振る舞い、まるで小さな玉のように壁にぶつかり、特定の場所にエネルギーを落とす性質も持っています。
どちらが本当なのかと問いたくなりますが、量子論の答えは明確です。
光は「波でもあり粒子でもある」という、一見矛盾した性質を同時に保持しているのです。
光が持つこの二重性は、量子力学の成立に決定的な役割を果たしました。
古典的な世界観では、物質は粒子、光は波というように明確に区別されていました。
しかし、光が粒子としても振る舞うことがわかった瞬間、古い世界観は大きく修正を迫られました。
光は私たちの「常識」を超え、世界の構造そのものを考え直させる存在となったのです。
2.光はなぜ特別なのか―物理学が見つめる根源的存在
光は単なる「明かり」ではありません。現代物理学は、光を宇宙の根本的な存在として扱います。
光の速さは宇宙の基本的な限界速度であり、時間と空間のあり方さえ光の速さを基準として定められています。
アインシュタインの相対性理論においても、光の速度は、不変のまま宇宙における指標の役割を果たしています。
さらに、光は「情報を運ぶもの」として特別です。私たちが星を見るとき、実際にはその星から放たれた光が私たちの目に届くことで、遠い宇宙の姿を知ることができます。
光がなければ、私たちは宇宙の存在を知る術を持ちません。それゆえに、物理学の世界で、光は「世界を知らせる最初の存在」としての意味を持っていると言えます。
このような光の特別性は、単なる科学的事実にとどまりません。光は、宇宙の理解において中心に位置しているのです。
物理学にとって光は、世界を読み解くための鍵であり、宇宙の深層を探るための最も基本的な手がかりなのです。
3.創世記の「光あれ」と量子論
ここで聖書の言葉に目を向けると、創世記の冒頭にこのような記述があります。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 (創世記1章3節)
創造の物語は、光の出現から始まります。まだ太陽や星が造られる前の段階で、神はまず光を存在させました。
これは単に物語の順序というだけでなく、「世界を形づくる第一の現象として光が置かれている」という重要な意味を含んでいます。
光を「世界を照らすもの」として理解することは自然ですが、創世記の文脈では、それ以上の象徴性も読み取れます。
光は秩序の始まりであり、カオス(chaos:無秩序)からコスモス(cosmos:秩序)への転換を象徴します。
さらに、光は神の創造の意思が、最初に外へ表れた瞬間でもあります。神の言葉が世界に働きかけた最初の結果として光が現れたのです。
もちろん、これは量子力学そのものを語るものではありません。
しかし、光が「世界のはじまり」に置かれているという聖書的視点は、光を宇宙の基礎とする現代物理学の理解と共通するところがあります。
異なる領域の知が、光をめぐって不思議な共通性を見せている点は注目に値します。
4.「波」と「粒子」が共存する光と、聖書における“二重性”のモチーフ
光が「波」と「粒子」の性質を併せ持つという事実は、単なる物理的な驚きにとどまりません。
世界の構造が、単純ではなく多層的であることを示す働きを持っています。
光の本質は、私たちの目に映る表面的な姿だけで理解することはできず、その背後に複雑な性質が潜んでいます。
一方、聖書にも「二重性」を象徴的に扱う部分があります。
創造の物語における「光」と「やみ」の分離、人間の内側にある肉と霊の対比、あるいはイエスが「世の光」でありつつ「受け入れられない光」として描かれる姿など、聖書はしばしば一つの現象に複数の層を見出します。
神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。(創世記1章4節)
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。(ガラテヤ人への手紙5章17節)
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。(ヨハネによる福音書3章19節)
ここでも、異なる領域に属する二つの世界観が、ある種の構造的な一致を見せていることがうかがえます。
量子力学における光の二重性は、聖書の象徴体系とは全く別の領域に属します。
しかし、世界が単純なものではなく、複層的であり、表面的な理解では捉えきれないという洞察は、両者に共通する認識といえます。
科学と聖書は異なる視点から世界を見ていますが、そこに含まれる探究の深さには、一定の共鳴が見られるのです。
5.光の探求は世界の成り立ちへの探求である
量子論が光に向けてきたまなざしは、単に自然現象を説明するためではありません。
光は、世界そのものがどのように構造化され、どのように動いているのかを知るための入口でした。
光を理解することは、世界の根底にある秩序を理解することにつながります。
聖書が光を創造の第一の出来事として描いたのも、同じく光が世界を形づくる基盤であるという直観によるものです。光は世界を照らし、区別し、秩序へと導くものとして描かれます。
そして、現代物理学もまた、光を宇宙にとって中心的な位置に置いています。
両者の視点は同一ではありませんが、「光の探究は、世界の成り立ちへの探究である」という共通の認識が存在します。
光の性質を深く知ることは、単に科学的知識を増やすだけでなく、世界を理解するための視座を広げることにつながるのです。

