1.すべてが決まっている世界か、それとも選択できる世界か
人間には自由意志があるのか、それとも私たちの行動や選択はあらかじめ決まっているのか。
これは科学や哲学、宗教の領域を越えて、古くから人類が問い続けてきた問題です。
古典物理学の世界観は、厳格な因果律に基づき、「すべての出来事は前の状態によって必然的に決まる」という決定論の立場に近いものでした。
物質の運動は正確に予測でき、わずかな誤差はあれど、基本的に世界は機械のように動くと考えられていたのです。
しかし、量子力学が登場すると、この世界観は大きな修正を迫られました。
量子論が示したのは、「世界は根底から確率的である」という全く新しい構造でした。
原子スケールの世界では、未来は一つに決まっておらず、複数の可能性が同時に存在し、そのどれが現実として選ばれるかは確率によって記述されるというのです。
この量子的な世界観は、私たちが自由意志を持つのかという問題にも、新しい光を投げかけます。
もし世界が完全に決定論的であるなら、人間の意思や選択は「たまたまそうなった」に過ぎず、自由意志の余地は失われるでしょう。
しかし、世界が確率的であれば、未来は完全には固定されず、開かれた可能性が広がることになります。
2.量子力学が示す「不確定性」と自由意志の余地
量子力学の根幹には「不確定性」という性質があります。
これは、物理量の組み合わせ(位置と運動量など)が同時には精確に決まらないという性質で、世界は最初から曖昧な部分を含んでいることを意味します。
粒子のふるまいは完全には予測できず、確率的にしか記述できません。
この不確定性は、世界のあり方を根底から変えるものでした。未来が一つに決まっていないということは、世界が「開かれた構造」を持つことを示します。
夜の海に浮かぶ船が、風と波に影響されて進路をわずかに変えるように、量子的な世界では、微細な偶然のゆらぎが未来の出来事に大きな影響を与える可能性があります。
もちろん、量子論の不確定性が、そのまま自由意志そのものを保証するわけではありません。確率的であることと自由であることは別の問題です。
しかし、「未来が完全に固定されていない」という点は、自由意志を理解するための重要な基盤となります。
世界が厳密な決定論によって閉ざされた構造ではない以上、人間の意思や選択が現実に影響を与える余地が存在するということです。
3.聖書が語る人間の自由意志と責任
聖書は、人間が自由意志を持つ存在であることを一貫して示しています。
創世記において、神は人間に「善悪を選ぶ」という選択を与えました。
アダムとエバは、神のみ言に従うか否かを選ぶ立場に置かれ、その選択の結果に責任を負いました。
この構造は、聖書全体に広がる重要なテーマです。申命記には次のように記されています。
見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。(申命記30章15節)
この聖句は、人間がどちらを選ぶかによって人生が変わるという構造を明確に示しています。
また、ヨシュアはイスラエルの民に向かって、「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい」(ヨシュア24章15節)と語りました。
そして、イエスは、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ福音書7章7節)と語られました。
聖書は、人間に自由な選択があり、その選択によって人生の方向が決まるという世界観を持っています。
もし世界が完全に決定論的であれば、人間の選択は意味を持たず、責任という概念も成立しません。
しかし、聖書は、人間が神の前で選択し、その結果に責任を負う存在であると断言します。
これは、世界が「選択可能性」を本質的に含む構造であることを前提とした世界観です。
人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。(ガラテヤ書6章7節)
聖書は、人間の選択が必ず結果をもたらし、本人がその結果を引き受けるという因果の原理を明確に語ります。
これは、自由意志と責任を不可分のものとして理解する聖書的世界観を象徴しています。
4.量子論と聖書の「開かれた未来」という共通性
量子力学は、世界が確率的に振る舞い、未来はひとつに決まっていないと述べます。
聖書は、人間が選択を通じて未来を形づくることを教えています。
この二つは、対象も意図も異なる領域に属しますが、「未来が閉ざされていない」という認識において共通点を持っています。
量子的世界観では、粒子は複数の可能性を同時に持ち、観測によって一つが選ばれる構造を持ちます。
これは、「未来には複数の可能性が潜在している」という世界観を示しています。
一方、聖書は、人間の行動が未来を変える力を持つと語ります。神は人間に選択の自由を与え、選んだ道が現実を生むという構造を用意しました。
もちろん、量子論と聖書を直接結びつけるべきではありませんが、両者の間には「未来が固定されていない」「選択が現実を形づくる」という構造的な共通点が存在します。
未来がひとつに固定されていないという認識は、人間が自由意志と責任を持つという聖書的世界観と相通じる視点です。
5.自由意志と神の摂理―両者をどう理解するか
ここで問題となるのが、「自由意志」と「神の摂理」をどのように両立させるかという点です。
もし神がすべてを知り、すべてを支配しているのであれば、人間の自由意志はどこに位置づけられるのか、という問いが生まれます。
聖書は、神が人間の自由を尊重し、選択を通して歴史を導くと語ります。
神の摂理は、人間の自由を奪うものではなく、むしろその自由の中で働くものとして理解されます。
すなわち、神の支配は強制ではなく導きであり、人間の選択は軽視されません。エレミヤ書には次のように記されています。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。(エレミヤ29章11節)
この聖句は、人間の選択と神の計画が衝突するのではなく、神が人間の選択を含んだかたちで歴史を導くという構造を示しています。
量子論の確率的世界観は、神の摂理そのものを説明するものではありません。
しかし、世界は最初からすべてが決められているのではなく、開かれた可能性の中にあるという考え方は、聖書が示す“人間には選び取り、応答する自由が与えられている”という人間観とも親和性があるのです。

