聖書と量子力学―第6回 神はサイコロを振るのか:アインシュタインと信仰の葛藤

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1.アインシュタインはなぜ量子力学を受け入れられなかったのか

20世紀の物理学を切り開いた人物として、アルバート・アインシュタインは象徴的な科学者です。

相対性理論によって時間と空間の常識を覆し、宇宙の姿そのものを新しく描き出したアインシュタインは、現代物理学の基盤をつくった人物として知られています。

しかし皮肉なことに、彼は自らの後に続く量子力学を全面的に受け入れることができませんでした。

アインシュタインが懐疑的だった理由は、量子論が示した「確率的な世界」に納得できなかったからです。

量子のふるまいは、どれほど精密に状況を整えても完全には予測できず、確率によってしか記述できません。

これに対してアインシュタインは、「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残しました。

彼は、宇宙の根底には調和と秩序が存在し、厳密な法則が働いているはずだと考えていたのです。

アインシュタインにとって、宇宙とは数学的に美しく構成された体系であり、偶然に支配される世界など受け入れがたいものでした。

彼は自然界の美しさと調和を深く信じており、その背後に「理性を超えた知性」が働いていると考えていました。

しかし、量子論は宇宙の根底に「確率」を置き、偶然とも言えるゆらぎを避けられないものとして扱います。アインシュタインは、この性質に強い違和感を覚えたのです。

 

2.ボーアとの論争―宇宙の本質をめぐる激しい対立

量子力学の創始者の一人であるニールス・ボーアは、アインシュタインとは全く異なる世界観を持っていました。

ボーアは、量子の世界は本質的に確率的であり、粒子の状態が観測されるまで確定しないという量子論の構造を、自然の根本的性質として受け入れました。

アインシュタインとボーアは、生涯にわたってこの問題をめぐり激しく議論しました。

アインシュタインは、量子論の確率的解釈は未完成であり、背後には必ず決定論的法則が潜んでいると主張しました。

これに対してボーアは、「量子論は自然を正確に記述しており、確率こそが本質である」と強く反論しました。

二人の議論は、単に科学的な対立ではなく、世界の成り立ちに関する哲学的な対立でもありました。

アインシュタインは、宇宙には秩序があり、その秩序は数学によって理解できると信じていました。

この信念の背景には、宇宙の背後にある調和を尊ぶ精神的直観がありました。

一方、ボーアは、自然は人間の直感に従って動くわけではないと考え、自然が示す“奇妙なふるまい”を受け入れることこそ、科学の使命であると論じました。

両者の対立は、科学の世界観が「秩序ある宇宙」と「確率的宇宙」のどちらを採用するかという根本問題に直結していました。

 

3.秩序と確率――二つの宇宙像

アインシュタインが信じたのは、自然が厳密な法則のもとに動くという従来の世界観でした。

月が軌道から外れないように、惑星の動きが精密に予測できるように、自然界には強固な秩序があるという直観が彼の根底にありました。

その秩序は、人間の理解を超えるものであっても、決して偶然に左右されるものではないと考えていたのです。

一方、量子力学が明らかにした世界は、秩序と確率の境界が曖昧な世界です。

粒子がどのようにふるまうかは完全には予測できず、未来には複数の可能性が潜在しています。

量子論が排除したのは「完全な決定論」であり、それは世界の根底にわずかな揺らぎと偶然性が存在することを意味します。

しかし、この「確率的世界」は、混沌ではありません。量子論の確率は統計的に高い精度を保ち、自然界のふるまいを極めて正確に予測します。

つまり、量子論の確率は単なるランダムではなく、秩序を含んだ確率なのです。

宇宙は完全には決まっていないが、無秩序でもない。量子論は、この二つの極の間に位置する世界を描き出しました。

 

4.聖書は秩序を語り、同時に自由を語る

聖書が示す世界観にも、秩序と自由という二つの側面があります。

創世記は、神が天地を秩序あるものとして造られたことを描き、自然界に明確な法則が存在することを前提としています。

光と闇、海と陸、昼と夜が区別されたように、神は世界に秩序と調和を与えました。

一方、聖書は同時に「人間の自由」を強調しています。人間は自由に選択する力を与えられ、その結果に責任を負う存在です。

申命記やヨシュア記が示すように、神は人間の選択を尊重し、その選択の積み重ねが歴史となるという構造が聖書には刻まれています。

 わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。(申命記30章19節)

 もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。(エレミヤ書24章15節)

この二つの側面――「秩序」と「自由」――は、一見すると矛盾するように見えます。

神が完全な支配者であり、世界に秩序を与えているのであれば、人間の自由はどこにあるのかという問いが生まれます。

しかし聖書は、この両立を前提として語られています。

世界は秩序ある構造のもとに保たれているが、人間はその秩序の中で自由に選択する存在である。この世界観は、単純な決定論には収まりません。

 

5.アインシュタインの「神」と聖書の神の違い

アインシュタインは多くの著作の中で「神」という言葉を用いましたが、それは聖書的な人格神を指していたわけではありません。

彼が語った「神」は、宇宙に潜む理性や調和、美しさを象徴的に表す言葉でした。

アインシュタインは自然界に潜む数学的秩序の存在を深く信じ、それを「神」と呼んだのです。

「神はサイコロを振らない」という言葉は、宇宙は偶然ではなく、理性ある秩序によって動いているという彼の信念を表しています。

この信念は、自然界にある美しさや法則の精密さを尊ぶ姿勢に根ざしていました。

しかし、聖書が語る神は、法則や秩序の象徴ではなく、意思を持ち、人間と関わり、愛を持って導く人格的な存在です。

アインシュタインの「神」は、宇宙の調和を語るための比喩でしたが、聖書の神は、世界を創造し、歴史に働き、人と交わる存在として描かれています。

両者の間には大きな違いがありますが、どちらも宇宙の背後にある秩序を認め、その秩序を理解しようとする姿勢を共有しています。

 人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。(箴言16章33節)

一見すると偶然に見える出来事であっても、その背後に神が働いていると語るこの聖句は、秩序と確率をどのように理解すべきかを考える上で、重要な洞察を与えてくれます。

 

6.確率の宇宙と聖書の世界観は両立可能か

現代の物理学者の多くは、量子力学が示す確率的世界観を受け入れています。

確率は世界の本質であり、未来は完全には決まっていないという立場です。

この立場は、宇宙が閉ざされた機械的構造ではなく、開かれた可能性を持つダイナミックな構造であることを示しています。

一方、聖書の世界観は、人間が自由に選択し、その選択が歴史を形づくると語ります。

この構造は、決定論的な世界よりも、開かれた可能性を含んだ世界の方が自然に整合します。

世界の根底に自由が存在するという視点は、量子的世界観と親和性を持っているのです。

もちろん、量子論が聖書を証明するわけではありませんが、両者の間に「世界は固定されていない」「未来には複数の可能性が存在する」という共通構造があることは確かです。

アインシュタインが求めた「秩序」と量子論が示す「確率」は、相反するものではなく、宇宙の理解における二つの補完的視点として捉えることができます。

そして聖書は、秩序ある世界の中に人間の自由が成立するという世界観を示しているのです。

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